8月は暑かったです

皆さんこんにちは、副住職の隆照です

7月末からとんでもない暑さが続きまして、このブログを書いている8月末になって、ようやくマシになってきたか?というような状況です

今年は私はお盆参りのお手伝いやら、自分のお寺のお参りやらで、8月前半はずっと外に出て、バイクで回っていた状況でしたので、お陰様で真っ黒に焼けました

なかなかブログの更新ができてなかったので、写真が溜まっております

順番に色々出していきます

お盆の間、光明寺の境内では、皆様から申し込んでいただいた塔婆がずらりと並んでいました

写真の段階ではまだ数は全て並べていないのですが、総数は100を超え、迫力のある光景となっていました

この塔婆は、亡くなった方の戒名を書いて、水をかけて弔うというものですが、ご覧の通り自分のところだけに水をかけるのは難しい作りにしております

というのは、お盆の意味であります他所の人にも手を合わせてあげて、皆で救われましょうという形になぞらえてです

地獄に落ちてしまった自分の親を助けるのに、親個人を助けようとしても、どうやっても助かりませんでしたが、生きている私たち皆の力を借りて、自分の親だけでなく、他の救われない人や動物みんなも助けようとしたところ、無事に救いの手が届いて助けることができた、そんな話があります

ですので、光明寺にお参りに来る方には、皆さんにこの期間は、他所の人のところにも手を合わせてあげてくださいね、とお願いしておりました

そんな期間の締めくくりが24日の施餓鬼のお勤めでした

お盆の期間ずっとお祀りして、貯めていた功徳をいろんな人や者たちに分け与えるというものです

今年はたくさんの方にお参りいただき、ほんとうに賑わっておりました

また、写真には撮れませんでしたが、光明寺にお供えとしていただいたお菓子などは、この日に、まとめて皆さんへのお接待という形で配らせていただきました

そして、21日には毎月の護摩を変わらず行っておりました

暑い中にも関わらず、たくさんのお参りでした

皆さんで一緒に、良い修行を行えていると思います

こちらの写真は、私が行っている夜の護摩です

6時過ぎごろから7時過ぎまでの1時間おこなっておりますので、また時間空いてるかたはどなたでもお参りください

暑すぎる夏の合間に、盥に水を張り、涼んでいる我が子

一枚だけベストショットが撮れました

無事に光明寺の夏が終わりました

みなさんこんにちは、副住職の隆照です。

お盆から降り続いていた未曾有の大雨も、ようやっと収まってくれました。

ここ光明寺では24日の地蔵盆、並びに施餓鬼のお勤めをもちまして無事に、夏の行事が終わりました。

私自身はと言いますと、25日に知り合いのお寺の施餓鬼のお勤めが終わりまして、光明寺から遅れること1日、なんとか夏の終わりを実感しております。

毎年のこととはいえ、8月の最後の方になってくると、疲れはしていますが、それ以上に里帰りしてくれた方たちが、お盆からお寺に訪ねて来てくれたり、いろんなお寺のお手伝いを頼まれ、バタバタと動いているうちに、高いテンションが続きお祭りのような気分で過ごしているせいか、時間があっという間に過ぎています。

コロナで通例通りとはいかないものの、お寺界隈もなんとか頭を働かせて、動いている中でのお手伝いが出来て嬉しく思っています。

さて、光明寺ですが、21日に護摩のお勤め、そして24日に施餓鬼のお勤めと二つの行事をこなしました。

写真は左がいつもの本堂、右が施餓鬼を行った持仏堂です

護摩に関してはいつもの通りですが、いつもと違うのは、参られた方は境内にお盆の間はお祭りしている各家のお塔婆にお水をかけてもらっていました。

いつもお願いしています、ご自身の先祖さんだけでなく、他の家の先祖さんにも手を合わせてあげてくださいね、ということをしていただいています。

光明寺では、お施餓鬼のお勤めで、去年のお盆から今年までに亡くなった方の位牌を一緒にお祀りして皆さんと供養します。

亡くなってお葬式をして、はい終わりというわけでなく、少なくとも仏教においては、そこから新たな道を歩んでゆく旅路の始まりですから、生きている私たちが可能な限り応援してあげたいですしね。

写真では撮れませんでしたが、ここからさらにたくさんのお供え物が置かれます。

それをご先祖様、そして餓鬼、さらには魑魅魍魎に食べてもらって終了です。

お盆の仏壇にいろんなものをお供えするのは、ご先祖様に食べてもらったあとに、誰も手を合わせてくれない霊たちにも食べてもらって、満足して成仏してもらうのが目的ですので、食べきれないぐらいの量をお供えします。

そして、お勤めが終わった後は、もう毎年恒例になってきましたね。

吉田僧正のお話し。

改めてですがこの方、落語家で、お坊さんです。

桂一門の落語家さんで、今は私たちのような若手のお坊さんの話し方のスキル向上の為に、指導してくれる立場でもあります。

去年は桃太郎のお話しでしたが、寿限無(じゅげむ)の落語が出てきました。

さすが、というべきでしょうか。

会場は話が始まると、大きく盛り上がり、マスクをしながらも笑い声がたくさん。

皆さんいつの間にか引き込まれ、目が笑いながらも真剣に。

今年初めて施餓鬼のお勤めに会う嫁も、裏方仕事がありましたが、なんとか終わらせて途中から聞き入ると大笑い。

そして、話は締めに向っていくのですが、全ては原因があるから結果がある、というお釈迦様の「因果応報」の結論になっていったそうな。

・・・断定できないのは、私が残念ながら途中までしか聞くことができなかったからです。

ええ、裏方仕事という原因が発生してしまったので(笑

ですが、話を聞いた皆さんは非常に満足そうにしていらしたので、会場を設営した側としても満足です。

そして24日が終われば、お盆の間境内に祀られた塔婆も片づけられます。

お性根抜き(魂を抜く)のお勤めをした後に、寺でお焚き上げをして灰になって帰られました。

いかがでしたでしょうか?

ここまでが光明寺の夏としての出来事でした。

まだまだ暑い時期ではありますが、皆さんの無事とご先祖様の冥福を光明寺より祈っております。

もうすぐお盆です

皆さんこんにちは副住職の隆照です

連日のとんでもない暑さの中、いかがお過ごしでしょうか?

私は着物を着るたびに、滴り落ちる自分の汗との闘いな気がして毎日過ごしています。

7月の末ごろから、お寺はどこもお盆の前準備に終われ出すのですが、光明寺も例に漏れず、いろんな人の助けを借りながらお盆に向けて走っています。

写真は七月末に皆さんの力を借りて行った境内の石仏群の一大草刈です

毎年行なっていることとはいえ、数は力!ということを思い知らされます。

ほんとうに、ここは私と住職だけで綺麗にしようと思うと三日ぐらいかかるのですが、皆さん揃ってくれれば1時間半ほどで綺麗に。

ありがとうございます。

これはお山の弁天様なのですが、ちょっと訳あって綺麗に整えている最中です。

というのも先日、面白い方とのご縁をいただき、いろいろアドバイスや相談を受けてもらったのですが、ここの弁天様周辺の場所がとっても気に入ってくれたようで、素敵な場所だ!パワースポットだ!とベタ褒めをいただきました。

それならば!ということで、以前からもう少し綺麗な場所にしたいな、と住職共々思っていたこともあり、重い腰を上げてみようか!ということになりました。

これからどのように変わっていくのか?お寺側としても楽しみであります。

脱線はさておき、この日の護摩はなんと新顔の人たちが参加です

しかも小学生と高校生を連れて来てくれました。

いつも言っていますが、若い子たちが増えると上の方もみんな元気をもらっているようで、活発な様子

護摩の燃え上がる炎を見て、あの子たちはいったいどんなことを感じとってくれたのでしょうか。

今日の住職の話は、定番といえば毎年恒例

お盆の供養と、六道輪廻の話です。

六道と言いますのは、私たち人間のいる世界を「人間道」又は「人道」と言ったりしますが、それを含めて「地獄道」「餓鬼道」「畜生道」「修羅道」「人間道」「天道」の世界があり、生きている時の行い「業」によって上の世界に上がっていったり、下の世界に落ちてしまったりします。

良い行いをすれば「善業」が溜まり、悪いことをすれば「悪業」が溜まるというわけですね。

また類は友を呼ぶ、ということがあるように良い行いは、それ自体が良い原因となって、更に良いことを呼び込みます。

これがお釈迦様が説かれた、全てに原因があって結果がついてくる「因果応報」です。

「善因善業」このブログを読まれたことをキッカケに、少し生活で意識してみたら面白い事が起こるかもしれません。

そして、お盆とはご先祖様が帰ってくると同時に、もう一つ大事なのが精霊供養とされています。

文字に出すと、すごく難しそうなのですが、内容は簡単。

他所の霊にも手を合わせてあげましょう、ということです。

木蓮尊者というお坊さんが昔はいたのですが、お母さんが訳あって地獄に落ちてしまいました。

そこで木蓮さんは、お母さんを助けたかったのですが、上手くいかず、お釈迦様に相談したところ、「地獄に落ちた人を助けるのは、個人を助けようとしても無理ですから、堕ちた人たち皆が助かるよう祈りなさい」と言われ、たくさんの人の力を借りて祈ったところ、お母さんも救われたというお話があります。

詳しく知りたい方は、「木蓮尊者、エピソード」とでも調べてくだされば、すぐに出てくるはずです。

その木蓮さん以来、私たちは自分のご先祖様に手を合わせるのと同時に、他の救われない霊たちも救ってくださいと願いを込めて、祈っています。

皆さんも、お盆のお墓参りの時は、自分の先祖だけでなく、他の霊たちに思いを馳せて、手を合わせてあげてくだい。

今年も盆の暮、夏の終わりの24日

みなさんこんにちは。

更新の間隔が短く投稿です。

今年も24日の施餓鬼のお勤めが光明寺で無事に行われ、コロナ対策で館内全開放の換気のもと、行われました。

仕方ないとはいえ、やはりこの時期の窓開けは暑かったです。

終われば着物から汗が滴るレベル。

うーん、人間の身体ってすごい!こんなに水分を貯めてるんだと、謎の感動を覚えるこの頃です。

さぁ、そんなことはさて置いて、本題行きましょう。

今日の文章は長くなりましたので、ひとまずこのページでは施餓鬼のお勤めの報告として前編とさせていただきます。

後編は吉田僧正のお話しをメインに後日アップします。

この24日の施餓鬼というものは、お盆で帰ってきたご先祖様の供養の流れから続く一連の行事です。ここまでやって、お寺としては夏が終わる!という感覚です。

と、言いますのも、実はお盆というのは、自分の家の先祖の墓参り「だけ」のためではないのです。

写真にのせているお経の本、なまえは「うらぼんぎょう」と読みます。

これにはお盆の始まりとなった木蓮さんというお坊さんの話が書かれていますが、詳細はご自身で見るか、お寺に来て本を見てみてください、ここではざっくりと。

木蓮さんのお母さんが亡くなったときに、生前の罪で地獄に落ちてしまうのをどうやって助けたらいいか?というお話しなのですが、木蓮さんは非常に優秀なお坊さんでしたが、一人だけの力では、どうやってもお母さんを助けることができませんでした。

それぐらいお母さんがいた地獄の世界というのは、厳しい場所に堕ちていたのです。

そこで、木蓮さんはどうやったかというと「ワンフォーオール、オールフォーワン」です。

意味が分かりません?

そうですよね

私もこれだけじゃわかりませんw

木蓮さんは、一人の力だと足りないと言われたので、国中の人たちの力に頼ることにしました。

お坊さんだけじゃありません。

老若男女、全ての人にちょっとだけ力を貸してくださいとお願いします。

そして、全員に「木蓮さんのお母さんだけ助けてください」なんて言っても、力を貸してくれるはずはありませんから、「救われない人の霊、人以外の霊、みんなを助けるために力を貸してください」とお願いしました。

方法は、ご飯とお水をお供えして祈りましょう。

これだけです。

しかし、他人の為にお祈りするというのは、実はとてもすごい功徳の力が溢れることです。

最近は心理学なんかでも、人は他人の為に行動するときの方が発揮する力が大きいなんて発見されたりもしてますので、納得のことです。

そんな一人一人の小さなお祈り。

他人の為に祈るということが、大きな力を生み出して、木蓮さんのお母さんは、他の地獄に落ちていた人たちとも一緒に救われることができました。

これが、お盆の始まりです。

私たちには関係ない?

地元にそんなお勤めがない?

ちょっと待ってください。

私たちの生活に馴染んでいますよ?

お寺の施餓鬼のお勤め、地域の地蔵盆、精霊流し、これらは元は全部同じです。

お墓参りで、お仏壇で、先祖に供えた食べ物の残りを、救われない霊たちに食べてくださいね、と流すのが精霊流しです。

私たちは、生活の中に知らず知らずのうちに、行っていることです。

ですので、お寺としても、ここまで行ってお盆が終わった!という認識です。

でも、今年は本当に暑かった!w

いつも活躍してくれる役員様です。

ホントありがとうございます。

持って帰っていただいたお接待の中身です。

おはぎとお菓子はお寺からですが、ちゃんぽんは檀家さんからの寄付と、ここにもう一つ、檀家さんのおばあちゃんが畑で育てた大きななすびが追加されました。

ホント嬉しい限りです。

光明寺のアイドル三人組です。

みんな大きくなって可愛さにますます磨きがかかってきたかな。

お勤めがすべて終われば、夏の間皆さんにお参りしていただいた塔婆の台も解体です。

また一年後まで倉庫で眠ってもらうことに。

そして、お塔婆はお性根抜きを行い、雨の日を待ってお焚き上げです。

~後半  吉田僧正(桂米裕)のお話しへ続く~   近日中にアップ

お盆が終わり、晩夏の候

お盆が終わりまして、暦の上では夏の暮なのですが、まだまだ暮れる気配のない暑さが猛威を振るっています。

みなさんこの暑い夏をいかがお過ごしでしたか?

今年のお盆参りは天気には恵まれましたが、むしろ、恵まれ過ぎたぐらいで、軽い熱中症にみまわれながら、なんとか無事に終わることができました。

今年は、お盆に皆さんにお配りするリーフレットの原稿を頼まれまして、不慣れな中何とか書き上げたものが兵庫県中の真言寺院に配られているかと思うと、なんとも不思議な感慨を抱きます。

私などが書いたものが、皆さんが見ていただくに堪えうるだろうか?という気持ちはもちろんありましたが、思ったよりも好評な意見を多数いただけていることに、安心を覚えるとともに、おそらくみなさんが心の中に持ちつつも、言わないでおいてくれているであろう批判めいた意見に思いを馳せてしまい、ありがたく感じるとともに思い上がらず、精進を重ねていこうと思いました。

さて、お盆の話はさておき、本日も光明寺では、暑い中でありますが、月例の護摩のお勤めを行うことができました。

天気予報では37度という予報でしたので、暑すぎるがゆえに皆さん来られないかと思っていましたが、始まってみると、10人もの参拝の方が来ていただき、本当に大変な環境のなかですが、来ていただけるというのはありがたいの一言に尽きます。

本堂では、扉を全開にしてお勤めですが、それでも暑かったので終わったころには私も皆さんも汗が滴っていました。

そんななかで、本日のお接待として用意していた冷たく冷えたメロンとお茶が、みなさんに大好評でした。

暑い思いをした後の冷たい飲み物というのは、本当に美味しく感じられますよね。

住職の話も、その冷たい水のお話しから始まっていましたが、英語のアクアの語源になったかもしれないと言われる、閼伽水(あかすい)仏様にお供えするお水のことです。

今の日本では、お水というのは水道を捻ればいくらでも出てきますが、つい200年ほど前までは世界各地のどこでも、飲み水というのは貴重なものでした。

それをたとえ少量とは言え、仏様にお供えするというのは、それだけ真摯にお祈りをする証でもあり、また、たとえ貴重なものでも、自分一人で独占することのないようにとの戒めの意味もありました。

これは、仏教でもキリスト教でも、他の宗教でも聖水などと言われて、お水に関する教えや戒めというのはたくさん存在します。

そのなかで、お盆で塔婆に水をかけるというのは、写真を見ていただければわかるように、どうやっても一本だけにはかけることができません

必ず、複数本かかると思います。

それがこの塔婆の目的です。

お水をご先祖さんに手向けてあげる、そして、我が家だけでなく、他の人の塔婆、ご先祖さんにも手向けてあげる。

自分が一番!という生き方を貫いていた昔の人が地獄に落ちた物語があります。

そして、その人を救うのは、優秀な個人の力では無理でした。

ですが、老若男女みんなの力を少しづつ分けていただくだけで、簡単に救うことができました。

それがお盆の始まりとなったものです。

ですので、お盆は我が家のご先祖さんに手を合わせて、そして少しだけ他所の霊たちにも手を合わせてあげてください。

その手を合わせてあげるお勤めのことを「お施餓鬼」と言います。

今年も光明寺では24日の10時から、可能な限りのコロナ対策を行ったうえで皆様のことをお待ちしています。

どうか、自分たちだけでなく、他所も救われますように、という祈りをわすれないでください。

山の護摩、私は欠席、そしてお盆の草刈り

いよいよ梅雨が明けたようで、暑くなってまいりました。

今年の梅雨は最初は、梅雨らしい梅雨になったなとおもっていたのですが、蓋を開けてみれば、降りすぎの過ぎたるは及ばざるがごとしでした。

各地の大雨で災害に見舞われた人たちの、一日でも早い復旧を祈ると同時に、少しだけですが募金を送っておきました。

ちょうど、友人のお寺が九州の被災地近くだったのですが、連絡を取ったところ、お寺は大丈夫だったのですが、檀家さんが被災されたとのことで、なにか役に立つ物資をみんなで送ろうとなったのですが、、、こんなタイミングで断捨離していたこともあり、古い毛布や衣類などがなかったのです。

私も物資送る組になりたかったw

仕方ないので、泣く泣く募金だけということになりました。

ほどほどの物は置いておくのが吉ですね。

心に刻んでおきます。

写真はお寺の境内の88か所影霊場ですが、毎年お盆前には、檀家さんの皆さんのお力を借りて草刈りを行います。

お盆でお寺にお参りに来る人の為にも、草ボーボーでは蛇の心配もあり危ないですからね。

今年は雨が多かった影響で草が非常に強い勢いで伸びてきており、草刈りが進んでいきませんでした。

機械の刃が止まるってどういうことや・・・

しかし、そんな中でもやはり皆さん熟練の技をお持ちで。

しっかりと確実に奇麗になっていく草むらは、いっそ感動を覚えるほど。

おかげで無事今年もお盆前の掃除を終えることができました。

ありがとうございます。

さて、今月の山の護摩は、私は法事が重なってしまいましたので出席ができませんでした。

ですので、写真はあげることができません。

しかし、法事の席でもお話ししていて出てきた話が一つ。

最近、私の非常に遠縁ですが、亡くなった方がいらっしゃったり、一時危なくなった人がいらっしゃったりしました。

人が亡くなるというのは、悲しいことで無い方がいいのは生きている人間側の永遠の希望ですが、人ひとりいれば、必ず誕生と亡くなるということがセットで付いてきます。

いくら医学が進んでも、アンチエイジングで若く見えていてもそれは変わりません。

皆さん頭では理解していることだと思います。

ですが、感情の面、心ではどうでしょうか?

余りにも人が亡くなるという事が、生活の傍から遠ざけられた現代、人が亡くなる姿を見たことがない子供はたくさんいます。

人が亡くなるという事は人生の一つの節目であり、終わりであり、仏教でいうと、肉体という姿から魂だけの姿になって、仏様になるための修行のスタートです。

お葬式で、亡くなった人の姿を見て、手を合わせるというのは、節目の姿を子供たちに教えてあげる大事な場所であり、亡くなった人が、私たち生きているものに、人が死ぬという姿を身をもって教える最後の大仕事の場です。

それを見ることができるからこそ、私たちは人生というものを考えられるのであって、永遠に生きるなど不可能なんだと自覚することができます。

節目があるから、頑張っていい人生を送ろうと努力できるんです。

今月はお盆。

亡くなったご先祖さまが帰ってこられる時期です。

頑張って人生を全うした大先輩たちに、手を合わせて、思いを伝えてあげてください。

きっと届きますよ。