今年も無事に夏が終わりました

みなさんこんにちは、副住職の隆照です

今年のお盆もとっても暑かったですが、みなさんいかがお過ごしですか?

コロナも高止まりが続いている状況で、なかなか動きづらいことも多かったかと思います

光明寺や私の手伝っている姫路のお寺、また友人のお坊さんからも、お盆参りにいく予定のお家が一家揃ってコロナになってしまい、お参りを中止するということが多数ありました

お坊さんもコロナになっていたという話をチラホラと耳にするので、ずいぶん身近なものになってきたという感じでしょうか

コロナになってからは毎年のごとく暗中模索状態のお寺の行事ですが、なんとか今年も無事に夏を乗り切ることができました

お盆参り中などは時勢を鑑みて、普段お茶を入れてくださるお家がペットボトルのお茶を接待していただき、そういったお家が続くとバイクに積みきれなくなり途中でお寺に荷物を下しに立ち寄るといったことが何度かありました

一日終われば業者さんのような飲み物とお菓子の量になります

さすがに当日中に私一人でいただくことは不可能でしたが、この時期はたくさんの人がお寺に参ってこられるので、皆さんに食べて飲んでいただき、また護摩と地蔵盆の行事でみなさんと分け合って一緒に頂きました

いろんなお接待をしてくださった皆様ありがとうございます

今年はいつも地蔵盆でお話しをしていただいていた吉田僧正がちょっと都合が悪かったので、藤田僧正(神戸、一言寺住職)にお願いしました

実はこの方、光明寺の住職の高野山に修行に上がった時からの同級生で、もう誰よりもお互いに良く知っている間柄というわけです

今年のお話しは時間も短く30分ぐらいでお願いしていたので、お勤めが始まる前に法話と今から行う施餓鬼のお勤めの説明のような形でしていただきました

この形が藤田僧正の得意とするところで、実はこの方神戸で何もないところから、ご自身でお寺を立ち上げられて、皆さんに信仰とは?ご先祖供養とは?というところを一から説明してこられた方です

そのお話しは流石というもので、身近な例え話で分かりやすいだけでなく、ご自身の熱意がこもったものでした

先日に悲しいニュースのあった統一教会のお話しもきっちりされて、私たち既存の宗教と新興宗教と呼ばれるものの何が違うのか?もしっかりと、お坊さんとしての見解を話しておられました

私たち既存の宗教をよく漢方に例えられます

飲んですぐ効いているのかはしっかりとわかりませんが、続けていればやがて仏様や神様のお力を少しづついただいて、やがて「やっていてよかったなー」と思えるもの

この「やっていてよかったなー」という感覚を得られることを私たちは安心(あんじん)と言っています

この安心を得られることこそが全ての目的であり、そのために様々な努力を重ねていっています

対して、新興宗教というのは劇薬といわれます

飲んですぐに効果がでて一見良いように思いますが、人生の長い時間の中で、劇薬で一時良くなったとしても、長い目で見れば結局副作用で悪くなっていく

奇麗ごとかもしれませんが、宗教は一人が笑って他の人が泣くというのではなく、みんなが笑顔でいられるというのを目指さなければいけないのです、ということを最初に話してから、じゃあ皆で笑顔にするために今日の施餓鬼というお勤めは何をしているのか?という説明からでした

一般にお盆というのはご先祖様が帰ってくる行事というのが皆さんのイメージでしょうが、本当の目的というのはその先にあります

これは古代インド、お釈迦様の時代の木蓮上人というお坊さんのお話しが元になっているのですが、今回は木蓮さんのお話しは長くなるので割愛します

タイプするのが大変なので(笑)

ネットで検索していただければ直ぐ出てくるので、興味ある方はそちらもどうぞ

ともあれ、木蓮さんの物語に端を発したお盆は、帰ってきてくれたご先祖様にお供え物を食べてもらって、その御下がりというちょっとお粗末なものを誰も助けてくれない霊たち、身寄りが無かったり、地獄に落ちていたりと可哀そうな者たちに施します

これでも食べて飢えと渇きを癒してくださいね、と

その行為が精霊流しだったり、地蔵盆でたくさんお供えをしたりというものです

飢えている霊たちは、本人の意思とは関係なく悪さを働いてしまうと仏教では言われています

そんな方たちは悪さを働くがゆえに、自分では救われていくことのない悪循環の中にいるので、そんな霊たちにも救いの手を差し伸べて、自分ところの先祖様と一緒にみんなで笑顔になりましょうというお勤めが施餓鬼供養というものです

ここからはあくまで私、副住職の私見ですが、宗教の行事には自分たちへのメッセージが含まれていると考えています

私たちは仕事や私生活で上手くいっているときは全部自分の功績で、もらった物は全部自分のものと考えてしまいます

これは人間なので当たり前にそう考えると思いますが、そこで少し待ったをかけてくれるのが宗教の教えかと思います

全部自分で良いことを独占しては、妬みも買いますし敵も沢山作ります

そんな行為は餓鬼と変わらないうえに、上手くいかない時期がやってきたときに誰も自分のことを助けてくれないことになってしまいます

そうならないために、自分で奢らず独占せず、周囲と上手く笑顔を分かち合いなさいと、毎年言われている気がします

子供が産まれて、皆さんの助けというものを借りながら親をやっていると、さらに強く思うようになりました

独占するのと分かち合うこと、どちらが漢方薬のように私たちの人生に効いてくるか、このお盆を機に少し皆さんも考えてみてください

お盆が近づいてまいりました中、高野山よりおおくりします

皆さんこんにちは、副住職の隆照です

とんでもない暑さの中無事に過ごされていますか?

今日も天気予報では最高気温41度になるかも、という報道がされていまして身体が溶けてしまうのではないか?と心配になる毎日です

私は今高野山に来ておりまして、8月の1日から5日まで各所でお参りに来てくださる方の話相手をさせてもらっています

やはり山の上は下に比べると涼しく、朝晩は気をつけないと風邪をひいてしまいそうです

上の写真は私がお参りの皆さんとお話させてもらう場所で、、、マイクと講壇など慣れてなく、毎回冷や汗をかきながら話しているのは内緒です(笑)

こんな長い廊下など、普通のお寺にはありません

金剛峯寺ならではですね

ここでお話させていただくのはお大師様のお話がメインですが、参拝の方のお話を聞くこともあります

いろんな方と話すのが楽しいので、時間がすぐに過ぎてしまうのが難点といえば難点です笑

最近仲の良いお寺さんで、良いお話を聞きましたので今回はそれをよく話しています

とある先達(お参りに連れて行ってくれる人)の話で、「最近の大人は子どもの荷物を全部持ってあげてる、自分に必要な水筒、食べ物、地図が入ったものを全部親が持って、一見子どもは楽なようにみえるけど、そうじゃない。必要なものを持つ体力も持ち方のコツもないものだから、いざ持たないといけなくなったときに重くて大変だ。これまでは親は子どもに持てる量の荷物を持たせて、成長に合わせて少しずつ増やしていってたもんだ。

人生も同じで、子どもに必要な事、荷物も全部親が代わりに持って、持ちきれなくなったとき、あるいは自分が死んだときに一気に渡すもんだから、その荷物は重いわな。そして、持たされた子どもは荷物の中に何が入っているか知らんから、重いもんは捨てて軽くなる。そして後で必要になった時に、無い無いと騒ぎだす」

この話を聞いて私は思わず唸ってしまいました

これを聞いてどう感じるか。それはいろんな感性があるのでしょうが、非常に考えさせられましたし、親となった身としてはなるほどと思います

私も思い返せば、少しずつ持たされたものがあったなという思いと、まだ荷物は住職がたくさん持っている状態ですので、これからもまだ私の分は増えていくことを考えると精進しなければという思いです

この話を読まれて皆さんはどう感じられますでしょうか?

できれば個人の思いを教えていただければありがたいです