暑い日が続きますが、田植えはひと段落?

皆さんこんにちは、副住職の隆照です

今年は一気に暑い梅雨になりましたね

沖縄の方ではもう梅雨が明けたと聞きましたが、本州はこれからが本番ですね

21日の光明寺護摩では、皆さん田植えや畑仕事がひと段落された人たちが、多く参拝に来てくれて賑やかなお勤めとなりました

先月から暑い中動かれていた男性陣はもう真っ黒の日焼けで、非常に格好いい出で立ちです

先月から写真を載せて成長を見守ってきた燕ですが、なんと!いつのまにか巣立っていました(笑)

ずいぶん大きくなってきたな、と思ってはいたのですが、少し出張していた間に巣立っていたので、飛び立ちを見るのが叶わなかったのが残念ではありますが、ここまで大きくなってくれたと思うと感動するものがあります

無事に生きていってくれよ!

そんな飛び去った後の巣ですが、燕たちは後続の輩が拝借しようと巣を見に来る光景がたびたび見受けられます

新しい家族ができてくれたら、ついに我が家も大家さんですかね?(笑)

家賃は幸福を運ぶ鳥ですので、福をもってきてください

久ぶりに写真をあげます、若女将の仕事シリーズ

護摩の日は生憎の雨模様でしたので、お勤め前の用意に傘をさして荷物持ちです

なお、正面からの写真はなかなか女性陣は撮らせてくれませんので、これで皆さん仕事風景を想像してください

産後で体調の不安定さもありますが、なんだかんだ元気にお寺の業務を手伝ってくれています

ホント頼もしいですわ

お勤めには我が子も参加しており、皆さまからの声掛けがホントに暖かい限りです

護摩が終われば法話ですが、今日は真楽寺さんがとっても面白い話をしてくれてみんな興味深々

般若心経の話でしたが、お経の中に漢文として書かれていることはそのままでは、難しすぎて内容を考える気にもなりませんが、それを親近感のある情景ではなしてくれていました

曰く、お釈迦様が観音菩薩様に悟りの境地の話をされたのですが、その内容とは難しい言葉すぎてよくわからない、全部を理解しようとするととってもややこしいことになってしまうので、もっと簡単にいきましょう

楽しく心地よければ良いんです

・・・なんだか怪しい麻薬のブローカーみたいになりましたが違います

世の中の皆さんが経験すること全てに悟りの境地が潜んでいて、楽しい遊びはもちろんのこと悲しいことや色恋沙汰、苦しい経験もすべてやり終えた後に、自分でやってよかったな!と感じて心地良く感じることができれば、それが悟っているということです

この護摩のお勤めもそうですが、普通に考えれば冷房の入っていない暑いお堂の中で、護摩の煙に巻かれながら座っているのなんか大変に決まっています

ですが、出席していただいた方ならわかると思いますが、そこには不思議な楽しさや心地よさがあるはずです

その気持ちを感じることこそ悟りの境地で、普段の生活の中の体験でもその気持ちを感じ取れるようになることが修行であり、境地への到達と説明されました

私もこの般若心経の話を始めて聞き、早10年

なかなか修行の道半ばで、理想には至らぬなぁと感じることが多いですが、皆さんと共に境地に至れるように精進していければな、と思っています

5月は鯉のぼりが泳ぎます

皆さんこんにちは、副住職の隆照です

5月は非常に天気の良い日が多く、よい季節を過ごされているのではないでしょうか?

私もおかげさまで忙しい日を過ごしております

先月から上げ始めた鯉のぼりですが、いよいよシーズンとなって各家で上がり始めました

最近は上げる家も少なくなってきたとはいえ、探せばよく目につくもので、自分で上げるようになってから、各地の鯉のぼりを探しては観察する鯉のぼりソムリエになってきました笑

5月は光明寺では大きなお知らせはありませんでしたが、個人的には嬉しいことがちらほらと

写真は私たち夫婦の住んでいる場所の入り口付近ですが、なんと燕の巣が!

私が物心ついてからお寺に巣を作ってくれるのは初めてですので、感動です

燕の巣は幸運を呼び込むともいわれているので、結婚してから作ってくれないかなーと願っていたのが、子供のできた年に初めて作ってくれるようになるとは、何かの因果を感じます

我が子と同じく大きく育ってくれたらなーと思いながら、日々驚かさないように出入りしておりますが、ちょっとだけ驚かしている時はごめんなさいね、燕さん

この燕を筆頭に、私の周りではベビーブームが到来しておりまして、同級生や先輩、家内の後輩関係なんかも産まれたーという知らせが多数

嬉しい知らせですね

嬉しい知らせは周りも明るくすると思います

そんな5月の護摩は皆さん田植えで大忙しの時期でしたので、今月は4人の参加人数でした

一年を通してやっていると、こんなこともあります

他の方に紛れて、うちのおチビも参加です

当日来れない方が、お願い事の書いた護摩木をたくさん置いていかれているので、人数は少なくても仏様にお伝えするものは多いのが嬉しいところ

皆さん頼りにしてくれているのは、本当にありがたいですので、私たちも頑張って勤めさせてもらっています

護摩のお勤めの後で住職の話でしたが、今日はダンマパダ「法句経」という古いお経からの引用でした

どれぐらい古いかというとだいたい2500年前

そんな昔のものが役に立つのか?そう思っていた時期が私にもありました

ですが、読んでみるととっても役に立ち、考えさせられることばかり

人間って使う道具が便利になっても、中身は別物になったりしませんから、昔から人の本質は同じなんだな、と考えさせられるものです

「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。

上記の文は住職が引用して使った法句経の一部です

この話では不本意なことに私がよく引き合いに出されます笑

子供が生まれた時は可愛いですし、親の後を着いてまわりますが、そのうち成長するに従ってだんだんと親の言葉、師匠の言葉をきかなくなっていきます

そこで私の子供なんだから私の言う通りにしろ、どうして私の思う通りにならないんだ、と考えてしまうと苦しみの始まりで、自分自身さえわかっていても同じ失敗をして同じ間違いをするのに、この世の中に自分の思い通りになるものがあると考えてはいけない

全ては諸行無常、自然のままに流れていきます

お金や物、はたまた自分が建てた家でさえ、壊れてしまえば誰のものでもない

天からの恵のものを一時使わせてもらっている、という教えです

自分の身体でさえ、死んで土に還れば誰のものでもなくなります

そんな中で、あれが自分のもの、これが自分のものと考えるのはしんどくないですか?

借り物の身体だからこそ、大事に使って返さないといけませんし、次も身体を借りれるとは限らないので頑張って生きようと思うのだと思います

皆さんも、これを機に何が自分のもので、何が他人のものか、それが本当に合っているのか?少し考えてみてはいかがですか