あけましておめでとうございます

無事にお正月も終わりまして、皆さまいかがお過ごしでしょうか?

光明寺では、家族が増えて初めてのお正月となります

例年どおりとはいかず、いろいろな変更に戸惑うところはありますが、それでも我が子を見ながらの変化というのは嬉しいものであると思いながら、良い時間を過ごしております

変化という意味ではもう一つ

例年通り行った除夜の鐘ですが、今回はコロナで人の足が遠のいて以来、最もたくさんの人がお参りに来てくださいました

例年どおりの顔ぶれと、久しぶりの顔ぶれと、やはり年の暮れに皆さんの顔を見れるというのは、本当に嬉しいことです

上の写真は、毎年行っている村内の檀家さんのお家への年始の挨拶参りです

一軒一軒の前に新年の挨拶をお届けして、家の前で般若心経をお唱えして、だいたい二日間で60件ほど歩いて参ります

お正月の午前中ですが、待ってくれているのでこちらも力が入ります

光明寺奥の院で行われる第2日曜日の護摩は、新年最初の行事になりますが、無事に勤修

今月から息子もデビューです

皆さんに可愛がってもらえて、息子も嬉しそう

本当に人の中にいるのが好きなやつです

お勤めが終わりましたら、住職から新年の挨拶と法話

新年の一発目から諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教

難しい漢字が出てまいりました

読み飛ばしていただいて結構です(笑)

これは七仏通誡偈といいまして、法句経などに載せられている「悪いことをしないで、良いことを行い、自分を清く保つ仏様の教えに従います」という意味の言葉です

ずいぶん古い言葉でして、お釈迦様より古いインドの御坊様が説いた教えとされています

当たり前のことですが、住職が今回言いたかったのは「自分を清く保つ」ということです

普段の生活では、良いことばかりでないのは、皆様がよくご存じだと思います

お正月からニュースを見ていると悪いニュースもたくさん流れていました

しかし、悪いことに直面しても、自分を清く保つ努力をして、染まらないようにしないと、どんどん悪い方向に進んでしまいます

心は清く、理想は高く、怒りに染まらず、そうしないとせっかく行った良いことの意味もなくなってしまうと言われます

・・・難しい!!(笑)

言うは易い、行うは難しですね

私たち僧侶も、日々そうなれるように修行と試行錯誤の毎日です

修行が上手くいくのかは判りませんが、お釈迦様の境地にいつかたどり着けると信じて、心を清く精進します

皆様も是非、悪いこと、悪いニュース、出来事、たくさん遭遇するでしょうが、自分を信じて、自分の信じる教えに倣って良い一年をお過ごしください

私はお釈迦様とお大師様の仏教を信じて、それに倣っていきます

メリークリスマス

一気に寒くなったようで、皆様いかがお過ごしですか?

光明寺では12月のお大師様の縁日の護摩も無事に終わり、新年の準備に大忙しで追われています

良く冷えた日の朝方、赤穂では久方ぶりに雪が積もりました

クリスマスの日にお参りで、檀家さんのお宅に上がらせてもらっていた時、サンタさんのクリスマスの話になりました

ちょっと皆さん興味がある内容かなと思ったので少し

私たちお寺は一般にクリスマスなどの多宗教の行事は行わないと思われているかたも多いかもしれませんが、そんなことはありません

・・・もちろん、他所が嫌いで行わないというお坊さんもいるとは思いますので、断定はできませんが(笑)

我らがいつも手を合わせている弘法大師空海さまは、名前や姿かたちは違えども、この世の中に存在している宗教は、方法論や言い方が違うだけで、すべては同じゴールに向いて歩いていると言われました

ですから、クリスマスのお祝いも行って大丈夫ですし、もっと言うなら、そのお祝いで日ごろの感謝や反省ができれば、もっと良しです

仏教では観音様というメジャーな仏様がいらっしゃいますが、このお方、私たちに教えを伝えてくれる時に、とっても多様な姿に変わって表れてくれると言われています

美女の姿の時があれば、男性の時もあり、あるいは動物だったり、老婆の姿だったり、そしてこのクリスマスは赤い帽子を被った、白いひげを蓄えた観音さまが来てくれているのだと、私は先輩から言われて、なるほどな~と思ったものです

ですので、皆様のお家のサンタ観音様は、どんな姿であらわれますかね?

是非聞かせてください(笑)

年内の更新はこれが最後です

皆様よいお年をお迎えください。

満員御礼、感謝感激雨あられ

みなさんこんにちは、副住職の隆照です

12月になって一気に寒くなって、また暑くなってを繰り返してますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか?

光明寺では去年より始めた、光明寺奥の院での柴燈護摩のお勤めを無事に終えることができました

今年は去年にもまして多くの方がお参りしてくださり、筆舌に尽くしがたいほどの喜びと感謝をもって、ここに報告させていただきます

去年より始まったこの護摩供、元はお参りに来てくださる方の為のものというより、普段光明寺を守護してくださっている土地神様や仏様に対する「お礼のお勤め」ということで住職の目論見では、こじんまり行うつもりでした

しかし、多くの方々の賛同、支援を得まして、去年より規模も、参列の方の人数も右肩上がりで務めることができました

当日は天候も良く、風も吹かずと最高の条件で行えたことは「おかげさま」を頂いたとしか言いようのないものでした

手伝ってくださった皆様の「おかげ」お力添えをしてくださった神様、仏様の「おかげ」そして当日お参りに来てくださった皆様の「おかげ」

このどれが欠けても実現することのなかった状況に、感謝いたします

普段とは違う山の上の舞台を用意するために、秋口から少しずつ、12月に入ればほぼ毎日のように住職と詰めていきましたが、それが終わってホッと一息

やっと肩の荷が下りました

光明寺奥の院のお堂の前の浮島で行われる柴燈護摩

場所が少し狭いので、なかなか他の場所で行っている柴燈護摩と同じ段取りを、というわけにはいきません

小さなことから大きなことまで、あれをして、これを行ってと、そんなことをしていたら当日は頭が真っ白です

余裕などあったものではなく、時間が飛ぶように過ぎていました

極めつけは、お勤めが始まって、マイクを使い、声が皆さんに届くようにしていたのですが、私が色々する番になったところでマイクが「ブツっーーーー」

新しくつけたスピーカーが壊れるというアクシデント

もう焦りすぎて、あまり覚えていません(笑)

聞こえなくなったスピーカーですが、本番中ですので修理などできるはずもなく、もう気持ちを切り替えまして₍ヤケクソとも言いますw)気にせず本番を執り行いました

そんなトラブルもありましたが、お勤めは無事に終えることができて、来てくださった皆さんのお加持にはいることができました

来てくださった皆さんに、お勤めで使った剣を使って、良いことが起きますように、悪いことが起きませんように、良いご縁に恵まれますようにとの祈願をさせてもらいました

この後に住職の挨拶がありましたが、以下抜粋

このお山は、お参りしていただくのは昔からとても難所だと言われています(車が普通車は登れないので山道を30分ほど歩かなくてはいけないため)

ご年配の方は、登ってこられて一言「ワシらをこ〇す気か」とつぶやかれる方もいました

皆さんも今日は大変な思いをされたと思います

登ってお参りに来られるのに、近道はなく、一歩づつでないと進んでこれなかったはずです

そして歩を進め続けたために、ここにたどり着くことができました

人生もこれと同じだと思います

いろんなことを言われても、結局近道はなく、一歩づつ着実に歩いていかないといけない

当たりまえのことですが、私たちはそれをついつい忘れてしまいます

忘れがちなことを、今日ここへお参りに来られたことによって思い出していただいて、そして、手を合わせることによって、思い出したことに加えて、なにか仏様からのメッセージを受け取っていただきたい

そういう信仰の場として、この光明寺奥の院を使っていただけたら幸いです

以上

住職からのメッセージでした

お参りの方がどんな思いで帰られたか、私たちにはわかりませんが、なにがしか皆さんに良い「おかげ」があってくれたらいいなと思っています

来年も12月の第二日曜日に開催予定です

来られる方は来るもの拒まずですので、みなさんお越しください

自分の善行は誰のもの?

皆さんこんにちは、副住職の隆照です

奇麗な紅葉も、落葉が続けば終わりが見えて、少し物悲しい風景になりつつありますね

光明寺の今年の紅葉は、残念ながら紅一色というわけにはいきませんでした

夏の台風直撃のあおりを受けて、沿岸部から海水が飛んできてしまい、山の木々たちがダメージを受けてしまったために、なんとも中途半端な色づきになりました

まぁ、自然の摂理ですので、そんなこともありますよね

毎年全てが思い通りにはならないものです

諸行無常ですねぇ

21日には光明寺本堂での護摩が無事に勤修されました

この日は天気も良く、11月とは思えないぐらいの温暖な日で、秋の収穫を終えられて、お仕事の方がひと段落された皆様が久々の出席で、本堂が賑やかな雰囲気でした

天気が良かったので、朝には霧が立ち込め、護摩の時間まで残っています

ちょっと写真は撮れてないのですが、朝のお勤めの時間には、ここからの景色は白一色で霧が立ち込めています

最近、信貴山での修行時代に、師匠がよく言っていた言葉を思い出します

「先人先徳」(せんじんせんとく)とよく言われていました

自分の親や曾祖父、さらにそこから続いていく先祖の方々が、いろんな善い行いをして、徳を積み重ねてきたのが、今を生きている私たちに降り注いで良い影響を与えている。だから、その積み重ねた徳の貯金を使って私たちが成長し、使い切らないうちに今度は貯める側に回らなければいけない

と、こんなことをずっと言われていたのですが、当時は私自身あまりピンとこず、もっと別のことを言えばいいのに、と不遜にも考えていました

ところが最近、いろんなご家族の方を見ていて、この先人先徳というのが、まさにぴったりだなと思うようになってきました

・・・当時の私はずいぶんと修行不足でしたね

一家のお父さんが亡くなって、その人を慕って様々な人が集い、そこから新しい縁が結ばれていく

つい先日、ちょっと訪ねたお家がそんな状況だったのですが、まさにこの言葉通りだな、と感じていました

仕事ができて、面倒見がよく、誰からも好かれる人徳者だった、私はそんな風に聞いています

この個人主義の時代ですので、良い人になっていい行いをして徳を積んでも、自分には何の見返りもない!損だ!という意見を言う人もいるでしょう

ですが、良い行いは、仮に自分に還ってこなかったとしても、自分の伴侶や子供たちに回ってきます

このあいだ集まった人たちの関心は、亡くなった人の子供さんたちへ

元気に過ごしているのかとか、学校では上手くいっているのかとか、当たり前ですが、暖かい会話でした

類は友を呼ぶ、亡くなった良い人を慕って集まったのは、やっぱり皆良い人たちでした

集まった良い大人たちの暖かい影響を少しでも受けて、強く大きく育ってくれたらいいなと、少し会っただけですが、私も強くそう思います

私たちは、先人の徳のおかげで知らない間に育って、そして気づいた時には、今度徳を貯めてあげる側になっていく

このサイクルがずっと昔から続いていますし、それは変わらないのだと思います

ですので、身近な善行から始めてみてください

まずは笑顔で挨拶と、身の回り、普段使っている物、場所の掃除からですかね

それだけで十分、徳の貯金にはなっていますよ

自分の為ではなく、子供の為、伴侶の為、孫の為

徳の貯金をしているときのあなたの顔は、きっと優しい仏の顔になっているはず

グーグルの記載方法が少し変わりました

10月になり、ぐっと寒くなる日も多くなってきました

表題にも書いているとおり、このページに来ていただく方法が少し変わりました

直接ブックマークで来ていただいている方には関係ないのですが、検索してから来てもらっている人は、一度別のページに飛んでから、ここのリンクを押してもらう形になります

光明寺では、良い秋晴れの一日の中で護摩のお勤めを迎えることができました

護摩のお話しを書こうかなとも思ったのですが、普段は書かないお勤めの周りの道具など少し書いてみようかなと思います

写真は毎月本堂側面に掛けていますお軸、これはなにかというと、四国88か所の「お砂踏み」と言いまして、ご当地のお寺の土を袋の中に入れておりまして、私のおじいちゃん、皆さんの協力を得て私の祖父の代に作ったものです

これの意味は、現地までお参りに行けない人たちの為に、現地の土を踏むことでお参りしたと同じご利益を得てもらおうということで始まったものです

光明寺では毎月の護摩のお勤めの度に、違う札所の軸を8つ掛けまして皆さんにお参りしてもらっています

写真のコの字は燃える香の粉で作っているもので、私たちのお勤めの最中は、これが必ず燃えております

燃え尽きるとこのような感じになるので、新しく人力で作り直します

こういう道具を使って作ります

私たちお坊さんが、最初の下働きとして叩き込まれるのが、この作業で色々怒られながら、注文をつけられながら上手くなってきました

私の下積み時代の作業は未だに日々の生活の中で続いております

写真は仏様にお供えしているご飯「仏飯」です

私たちの朝炊いたお米を、朝ごはんの前に少し取って、仏様に最初にお供えしております

別に食べ物なら何でもいいのです、白ご飯でも食パンでも仏壇にお供えしてあげてください

まだまだ出そうと思えば色々ありますが、それはまた次に

住職の護摩の後、夜に護摩のお勤めを始めて3か月目

6時半から火を上げて、副住職の私が護摩を行っておりますが、まだまだ自身の修行不足を感じているところです

ですが、私たちと同じ若い世代が、なかなかお参りできないとの声をいただいているので、いつかは皆様に来ていただけるよう続けていこうと思っています

修行不足といえば、最近子育てでも自分の修行不足を感じ、改めて「親になる」というのは難しいと感じています

自分以外の人間の世話をして、育てていくことのなんと難しいことでしょうか

自分もやってもらったことなので、文句は言えぬと思い精進していきます

私たち人間って動物なので、本能とは切っても切り離せるものではないと思っています

そんな中で、子どもは誰に教えられるでもなく、健康な夫婦であれば勝手に出来るかと思います

しかし、勝手に子どもはできたとしても、残念ながら、勝手に親にはなれません

特に男性陣は母性本能など持っておらず、何も意識しなければ子どもができた後も、変わらず遊び呆ける人間もでてきます

だからこそ、どうありたいか?どんな親になりたいか?という理想を胸に抱き、理想とのギャップに悶えながらも過ごしていくしか無いと考えています

私たちお坊さんは、日々の朝のお勤めの中、仏心という仏様の心を持った生き仏になりたいと日々願い修行しております

最初は届かなくても、捨てず諦めず、面倒くても続ける

そんな修行を何十年か続けた後、もしかしたら生き仏と言われるようになれているかな?

…もしかしたらクソ坊主と言われているかもしれません(笑)

親も、お坊さんも両方とも難しいですが、ボチボチ続けていってみようと思います

住職は奥の院、私は高野山

みなさんこんにちは、副住職の隆照です

急に寒くなってきた中で、慌てて冬物の準備に追われていますが、みなさんはいかがお過ごしでしょうか?

10月の9日、光明寺奥の院では無事に月並みの護摩のお勤めが行われ、たくさんのお参りの方が見えられたそうです

今回私は出席できず、写真が撮れなかったので、お山の護摩の様子を写した写真はありません

代わりに、私はどこに行っていたのかと言いますと、高野山の金剛三昧院

私が高野山に上がって、4年間イロハを教えてもらう丁稚として働いていたお寺の落慶法要を手伝いに行っておりました

光明寺に関係のある方は、よくご存じかもしれませんが、実はこの金剛三昧院、今の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にバリバリ関係しております

北条政子が大泉洋演じる助殿、源頼朝とその子供の実朝の供養の為に建てたお寺が、金剛三昧院です

高野山は火事が多かったもので、ほとんどのお寺が昔の建物は消失している中で、この金剛三昧院だけは、一度も燃えたことがなく、当時の建物がそのまま残っているとして、世界遺産にも認定され、政子様の命で作られた多宝塔は国宝指定です

今回のお勤めは、なんとその多宝塔の中で行われまして、私も手伝い兼お勤めに出席という、なんともありがたく貴重な経験をすることができました

写真の塔が多宝塔ですが、中は撮影禁止なので外側だけの映像です

中の空気は流石といいますか、建立当時から拝まれて、いろんなお坊さんが手を合わせたからこそ、不思議な力が集まっているように感じます

どんなに豪華なものを作っても、どんなに優秀なお坊さんがいても、私たちは一人一代限りでできることなど、たかが知れていると思っています

この多宝塔とその中の仏様は、何代も時代を超えて、いろんなお坊さんに受け継がれ、そして今現在私たちが、その尊前にて、お勤めすることができています

受け継いだお坊さんは、優秀な人もいれば、そうでない人もいたでしょう

でも、全てのお坊さんが様々な形で「手を合わせる」ということを続けてきたがゆえに、とてもたくさんの力を蓄えられた、神秘を感じさせる仏様でした

私個人の力は微力なものですが、こんな素晴らしい場所でのお勤めに参加できるご縁に会えたことは、ひとえに日々のやっていることが間違ってはいなかったのかな、とおもっております

素敵なご縁は、どんどん繋がっていってくれたら嬉しいですね

最後に私の高野山時代の師匠さまと同期のメンツです

丁稚の時から皆で一緒に飯を食べて過ごしたメンツです

みんな大きくなったよねー

それぞれが今は自分のお寺の住職で、全員頑張っております

私も負けず、帯を締めて頑張らねば!

お彼岸は残念なことになりました

皆さんこんにちは、副住職の隆照です

このブログを書いているのはお彼岸の真っ最中ですが、本来忙しいはずの期間ですが残念なことに、15日から光明寺は一堂が次々とコロナにかかってしまい、今は一切の行事活動を停止しています

本来なら隔離期間は住職で22日、私で23日には終わりますが、やはり色々調べたり聞いていると症状が無くなっても10日ほどはウイルスは潜んでいる危険があるようなので、お参りに行って万が一があってはいけないとの住職の判断で、お彼岸の行事一切を中止しました

楽しみにしていただいてた方々には申し訳ないですが、ご理解の程お願いします

大師講は中止になってしまいましたが、護摩のお勤めは住職の意思で「毎月の決まった時間に行っているのが仏様との約束であり、それをこちらの都合でやめるわけにはいかない」ということで本堂でお勤めは行いました

もちろん誰も参拝は来ないようにして、です

幸いにして、光明寺一同は息子も例外なくコロナの高熱に見舞われましたが、無事に回復し後遺症を感じることもなく過ごしています

実は先月より副住職も護摩のお勤めをしています

その写真がこちら

色々思うことがありまして、私も本尊さんにお力を貸していただきたく始めました

どうせなら住職とは全く違う時間帯でやろうと思い、夜の7時半ぐらいまでに終わる形で行っています

朝方はなかなか時間の都合がつかないけど夜ならば、という方がいらっしゃればどうぞお気軽にご参加ください

台風がすぎて幾分か涼しいですね

みなさんこんにちは、副住職の隆照です

夜の温度が台風の後はなんとか下がるようになってきて、少しホッとしました

沖縄の方では連日台風に悩まされているニュースを見ると、台風のおかげで涼しくなったと喜ぶのも少し気が引けるかな?という心持です

本日の第二日曜日の奥の院の護摩は天気にも恵まれて、まだ気温が上がり切る前の午前中に無事に行うことができました

最も、これを書いているときは午後の一番熱い時間ですので、体感の温度は真夏と変わりません

気温よ、もう少しさがっておくれ

ともあれ、奥の院はさすが山の中といいますか、やはり上がると周囲より気温が低く感じます

朝一番に登ってお勤めの準備をしようかと思ったら、嫌な羽音

何事かと裏を見てみると、出入りしておりました

スズメバチがせっせと動いているではありませんか

いつの間に巣を作ったのか、大きくなるまで全く気付かなかったのは流石野生というべきでしょうか

しかたないので、裏の窓は開けずに入ってこないように対策してのお勤めです

巣は後日、住職と私で床板剥いで駆除することになりました

ネタ写真撮れたら上げますね

そんなトラブルはありましたが、お勤め自体は何事もなく行うことができました

今月も沢山の方のお参りをいただきありがとうございます

親子連れや友人と、来られるスタイルは様々ですが皆さん一様にスッキリして帰って行っていただけているのが私たちとしても本当に喜ばしいところです

このブログを書いた後は実は私は京都の智積院に行かなければいけなくなってしまったのです

真言宗の各本山(高野山や中山寺、須磨寺など)から推薦された若手が集まる研修会だそうですが、なんと高野山からの推薦を受けてしまって・・・もっと優秀な若手に回してほしかった(笑)

推薦をする人が昔から縁のある人でして断るに断れず、人選間違いという思いが胸に一杯広がる中ですが、もう開き直ってこのご縁に感謝していってきます

・・・盛大に失敗したらブログに書くかもしれません(笑)

今年も無事に夏が終わりました

みなさんこんにちは、副住職の隆照です

今年のお盆もとっても暑かったですが、みなさんいかがお過ごしですか?

コロナも高止まりが続いている状況で、なかなか動きづらいことも多かったかと思います

光明寺や私の手伝っている姫路のお寺、また友人のお坊さんからも、お盆参りにいく予定のお家が一家揃ってコロナになってしまい、お参りを中止するということが多数ありました

お坊さんもコロナになっていたという話をチラホラと耳にするので、ずいぶん身近なものになってきたという感じでしょうか

コロナになってからは毎年のごとく暗中模索状態のお寺の行事ですが、なんとか今年も無事に夏を乗り切ることができました

お盆参り中などは時勢を鑑みて、普段お茶を入れてくださるお家がペットボトルのお茶を接待していただき、そういったお家が続くとバイクに積みきれなくなり途中でお寺に荷物を下しに立ち寄るといったことが何度かありました

一日終われば業者さんのような飲み物とお菓子の量になります

さすがに当日中に私一人でいただくことは不可能でしたが、この時期はたくさんの人がお寺に参ってこられるので、皆さんに食べて飲んでいただき、また護摩と地蔵盆の行事でみなさんと分け合って一緒に頂きました

いろんなお接待をしてくださった皆様ありがとうございます

今年はいつも地蔵盆でお話しをしていただいていた吉田僧正がちょっと都合が悪かったので、藤田僧正(神戸、一言寺住職)にお願いしました

実はこの方、光明寺の住職の高野山に修行に上がった時からの同級生で、もう誰よりもお互いに良く知っている間柄というわけです

今年のお話しは時間も短く30分ぐらいでお願いしていたので、お勤めが始まる前に法話と今から行う施餓鬼のお勤めの説明のような形でしていただきました

この形が藤田僧正の得意とするところで、実はこの方神戸で何もないところから、ご自身でお寺を立ち上げられて、皆さんに信仰とは?ご先祖供養とは?というところを一から説明してこられた方です

そのお話しは流石というもので、身近な例え話で分かりやすいだけでなく、ご自身の熱意がこもったものでした

先日に悲しいニュースのあった統一教会のお話しもきっちりされて、私たち既存の宗教と新興宗教と呼ばれるものの何が違うのか?もしっかりと、お坊さんとしての見解を話しておられました

私たち既存の宗教をよく漢方に例えられます

飲んですぐ効いているのかはしっかりとわかりませんが、続けていればやがて仏様や神様のお力を少しづついただいて、やがて「やっていてよかったなー」と思えるもの

この「やっていてよかったなー」という感覚を得られることを私たちは安心(あんじん)と言っています

この安心を得られることこそが全ての目的であり、そのために様々な努力を重ねていっています

対して、新興宗教というのは劇薬といわれます

飲んですぐに効果がでて一見良いように思いますが、人生の長い時間の中で、劇薬で一時良くなったとしても、長い目で見れば結局副作用で悪くなっていく

奇麗ごとかもしれませんが、宗教は一人が笑って他の人が泣くというのではなく、みんなが笑顔でいられるというのを目指さなければいけないのです、ということを最初に話してから、じゃあ皆で笑顔にするために今日の施餓鬼というお勤めは何をしているのか?という説明からでした

一般にお盆というのはご先祖様が帰ってくる行事というのが皆さんのイメージでしょうが、本当の目的というのはその先にあります

これは古代インド、お釈迦様の時代の木蓮上人というお坊さんのお話しが元になっているのですが、今回は木蓮さんのお話しは長くなるので割愛します

タイプするのが大変なので(笑)

ネットで検索していただければ直ぐ出てくるので、興味ある方はそちらもどうぞ

ともあれ、木蓮さんの物語に端を発したお盆は、帰ってきてくれたご先祖様にお供え物を食べてもらって、その御下がりというちょっとお粗末なものを誰も助けてくれない霊たち、身寄りが無かったり、地獄に落ちていたりと可哀そうな者たちに施します

これでも食べて飢えと渇きを癒してくださいね、と

その行為が精霊流しだったり、地蔵盆でたくさんお供えをしたりというものです

飢えている霊たちは、本人の意思とは関係なく悪さを働いてしまうと仏教では言われています

そんな方たちは悪さを働くがゆえに、自分では救われていくことのない悪循環の中にいるので、そんな霊たちにも救いの手を差し伸べて、自分ところの先祖様と一緒にみんなで笑顔になりましょうというお勤めが施餓鬼供養というものです

ここからはあくまで私、副住職の私見ですが、宗教の行事には自分たちへのメッセージが含まれていると考えています

私たちは仕事や私生活で上手くいっているときは全部自分の功績で、もらった物は全部自分のものと考えてしまいます

これは人間なので当たり前にそう考えると思いますが、そこで少し待ったをかけてくれるのが宗教の教えかと思います

全部自分で良いことを独占しては、妬みも買いますし敵も沢山作ります

そんな行為は餓鬼と変わらないうえに、上手くいかない時期がやってきたときに誰も自分のことを助けてくれないことになってしまいます

そうならないために、自分で奢らず独占せず、周囲と上手く笑顔を分かち合いなさいと、毎年言われている気がします

子供が産まれて、皆さんの助けというものを借りながら親をやっていると、さらに強く思うようになりました

独占するのと分かち合うこと、どちらが漢方薬のように私たちの人生に効いてくるか、このお盆を機に少し皆さんも考えてみてください

お盆が近づいてまいりました中、高野山よりおおくりします

皆さんこんにちは、副住職の隆照です

とんでもない暑さの中無事に過ごされていますか?

今日も天気予報では最高気温41度になるかも、という報道がされていまして身体が溶けてしまうのではないか?と心配になる毎日です

私は今高野山に来ておりまして、8月の1日から5日まで各所でお参りに来てくださる方の話相手をさせてもらっています

やはり山の上は下に比べると涼しく、朝晩は気をつけないと風邪をひいてしまいそうです

上の写真は私がお参りの皆さんとお話させてもらう場所で、、、マイクと講壇など慣れてなく、毎回冷や汗をかきながら話しているのは内緒です(笑)

こんな長い廊下など、普通のお寺にはありません

金剛峯寺ならではですね

ここでお話させていただくのはお大師様のお話がメインですが、参拝の方のお話を聞くこともあります

いろんな方と話すのが楽しいので、時間がすぐに過ぎてしまうのが難点といえば難点です笑

最近仲の良いお寺さんで、良いお話を聞きましたので今回はそれをよく話しています

とある先達(お参りに連れて行ってくれる人)の話で、「最近の大人は子どもの荷物を全部持ってあげてる、自分に必要な水筒、食べ物、地図が入ったものを全部親が持って、一見子どもは楽なようにみえるけど、そうじゃない。必要なものを持つ体力も持ち方のコツもないものだから、いざ持たないといけなくなったときに重くて大変だ。これまでは親は子どもに持てる量の荷物を持たせて、成長に合わせて少しずつ増やしていってたもんだ。

人生も同じで、子どもに必要な事、荷物も全部親が代わりに持って、持ちきれなくなったとき、あるいは自分が死んだときに一気に渡すもんだから、その荷物は重いわな。そして、持たされた子どもは荷物の中に何が入っているか知らんから、重いもんは捨てて軽くなる。そして後で必要になった時に、無い無いと騒ぎだす」

この話を聞いて私は思わず唸ってしまいました

これを聞いてどう感じるか。それはいろんな感性があるのでしょうが、非常に考えさせられましたし、親となった身としてはなるほどと思います

私も思い返せば、少しずつ持たされたものがあったなという思いと、まだ荷物は住職がたくさん持っている状態ですので、これからもまだ私の分は増えていくことを考えると精進しなければという思いです

この話を読まれて皆さんはどう感じられますでしょうか?

できれば個人の思いを教えていただければありがたいです