5月は霧の奥の院

皆様非常事態宣言が延長された中でいかがお過ごしでしょうか?

ここ光明寺奥の院では、今月も変わらず護摩のお勤めが行われましたが、当初は雨の予報でしたが、蓋を開けてみれば霧の中で幻想的な雰囲気の中でお参りができました。

霧の中で佇むお大師様

まるで高野山の奥の院にいるかのようで、幻想的な空気が漂っています

お参りに来られた方も、やはりこの制限の中で出ていく機会がなかったようで、普段と違う空気の奥の院を堪能しておられたよう

ちなみに、全く関係ない話ですが、写真に写っている苔は杉苔という品種で、水分が足りているとフカフカの絨毯のようにきもちいい苔ですが、一年のうちで5月6月ぐらいが一番きれいな状態で見ることができます。

奇麗な反面、とっても弱いので、いつもお掃除の最中にブロウで根っこごと吹き飛ばしてしまい、慌てて拾ってまた地面に置いておくこともしばしば。

日々お参りをしていると、いろんな方のお話しを聞きます。

明るい話題もあれば、重篤な相談事もありますが、ここ最近は皆さん外出規制の中でのストレスは無視できないようで、日々の生活が辛くなってきたという相談も増えてきました。

5月には解除されるかもしれない、という期待を持って、延期になったことで裏切られる形で、余計不満が溜まってしまった人もいるかと思います。

家から一歩も出てないという方を何人か見て思ったのは、人の精神の健康の為には、人間も光合成が必要なのだということです。

別に、太陽の光を浴びないでも生きていくことはできますが、鬱病の発症率などは格段に上がるそうです。

そのほかにもたくさん弊害が出てくるので、心の健全を考えたときは、やはりどこかに散歩というのは、とても大切なことだと思います。

その点、今日の光明寺のお参りは、密にもならず、最高の気分転換ができたのではないかと思います。

お寺や神社のお参りっていいですよね

こんな時は余計にいい散歩コースとして使っていただきたいと思います

お山の上から祈ります

本日の奥の院の護摩は残念ながら雨模様

ここ最近の奇麗だった桜の花も、この雨で散ってしまうかもしれません

今年はゆっくり花見をすることは叶わなかったけど、それでも長い間気持ちのいいドライブを満喫させてくれた桜の花にありがとうですね

さて、そんな中でもいつもと変わらず、護摩のお勤めは勤修されました。

世間ではやはりコロナによって落ち着かない状況が続いている中、感染爆発を防ぐためと頑張っておられる関係者の皆さんの奮闘に感謝するとともに、そのお体がどうか健全でありますようにと、お祈りしております。

どうやら、お坊さん界隈では「護摩数珠繋ぎ」なるものができたみたいで、これは疫病の無事収束を真言宗のお坊さんがみんなで護摩を焚いて祈っていきましょうというのもだそうです。

祈りって大事ですよね。

皆さんご存知の奈良の大仏様も、当時流行した疫病(天然痘だと言われています)が収束しますようにとの願いを込めて作られたものです。

この度、去年はやったピコ太郎さんが再びppapの動画を上げていました。

それは、わかりやすく手洗いの啓蒙を促している動画で、世界中から大絶賛されているようです。

動画の最後に洗って奇麗になった手を合わせてppap

pray for people and peace 人々と平和のために祈ろう

と作っていましたが、人のやるべき大事なことは昔も今も変わっていないのだなと思いました。

祈るって、誰でもどこでもできるから素晴らしいですよね。

こんな時だから、ではなく、こんなときだからこそ光明寺は、いつも通りにお祈りしています。

お参りの際は、感染防止のために距離も心もゆとりを持って、お参りくださいませ

小春び・・・もう春ですね

今月も21日がやって参りました

昨今の事情の中で、お参りに来てくださる方がいないかもしれないと心配もありましたが、今月も無事に皆様のお参りをいただきまして、護摩のお勤めが開催できたことをありがたく思います。

今年は暖かかったこともあり、例年ですと4月の頭に咲こうかという木蓮の花びらがもう開花を迎え、雲一つない青空のもと、皆さんを迎えてくださいました。

新型コロナの影響により、フランスでは非常事態宣言が出されたり、アメリカでも移動規制が入ったりと世界中が、とてつもない渦の中で光明寺の空だけは何事もなかったかのように晴れ渡っておりました。

少しお参りの方の人数が少なかったので、今日はいつもみんなで回す巨大な数珠はお休みです。

その代わりに、小さな子もみんなで般若心経に合わせて木魚をたたいてお勤めしました。

子供たちには「木魚をたたく」ということが楽しかったようで、太鼓の音に合わせてテンポ良くポコポコ、テンポを外しポッコポコ。

終いには太鼓の音と、般若心経のお経の声と、子供たちの笑い声が響きあい、最高のビートです。

そんな素敵な空間を作ってくれたものだから、今日の護摩はいつもと違う雰囲気です。

みんな真剣にしながらも笑顔が絶えません。

こんなサイズの木魚を叩きます。

まるでお堂の中が一つの曼荼羅のように思えました。

曼荼羅とは仏教における世界を書き表したものであり、物事の真理だと言われています。

そんな理想の世界が、光明寺のお堂の中でみんなが笑っていた空間で実現されていたのではないかと思います。

物事の真理は身近過ぎて気づかないと、よく言われますが、あったじゃない、こんな近くに。

お勤めが終わって、みなさんは住職のお話しを聞いているのはいつも通りなので、今日は外で子供たちの遊んでる姿を

一緒に写っているのは、いつもお手伝いしてくれている真楽寺さんです。

・・・子供の横に並ぶと迫力がすごいw

皆様のおかげで、光明寺は今日も老若男女、みんな笑顔で平常運転できております。

実は・・・お山の

新年になりまして、初めての黒澤山の護摩のお勤めに参加できました。

今日はえらい久しぶりの感覚だなーと思って、実際に予定を確認したところ、11月から欠席が続いておりましたので、お恥ずかしい( ;∀;)

もう冬も終わりかけの3月ですが、朝方の雨の影響もあり、山の上は息が白くなるほどの寒さ

しかし、そんな中でも変わらずたたずむお堂とお釈迦様の涅槃像を一枚

森の中にひっそりとですが、確かな存在感をもってたたずむ姿に思わず魅入られそうです。

このお釈迦様の涅槃像の大きさは2メートルを超えているので、近づくと大きさがわかるのですが、遠目ではバランスの良さも相まって、普通の人が横になっているような雰囲気をしておられます。

雨上がりの雰囲気も相まって、より一層落ち着いた調和がとれていました。

思えば、この涅槃像がここに安置されたのは私が幼稚園か小学校低学年のころだったと思います。

当時の住職であった先代隆弘和上(私のおじいちゃん)がツナギで石屋さんと作業をする姿を、子供ながらに興味津々で見ていたのを覚えています。

それから20年以上たった今、いろんなものが変わりますが、お釈迦様は変わらずここにいてくださっています。

日々の生活が目まぐるしい変化に追われて、、、という謳い文句はよく使われますし、私も使いますが、考えてみるとそんなに今も昔も違うことはしていないのかも、と考えるこの頃です。

新型コロナの一報でトイレットペーパーが無くなるのを見て、新しい機械や技術に囲まれても人の本質は、10年や50年では変わらないと言われるのは納得でした。

さぁ、話が変な方向に行きましたが、本日のお勤めではなんとお弁当の差し入れがありました。

なんと、このお弁当手作りです。

赤穂の高橋さん御一行が朝早くから作ってくれたのを、お参りの人全員にと配ってくれました。

私もいただきましたが、栗ご飯の美味しいこと

デパ地下で買ってきたと言われても疑わないようなレベルです。

ありがとうございました。

お勤めのほうは定刻通り始まったのですが、この日は煙がすごく出まして、私はこの季節花粉症なので、普段は気にならない煙でも非常に目と喉にダメージが来ます。

今日は目があけれない!

しかし、お参りの人は皆真剣にお願いを持ってこられるので、煙にやられてばかりいるわけにもいきません。

しかし、煙たい!w

無事とは言い難いですが、なんとか終わって涙が止まりませんでした

そのあと住職の話ですが、笑いの和顔施についてでした。

これは、笑顔で相手に接することによって笑顔の施しをしてあげましょうという意味なのですが、スマイルはゼロ円という言葉があるように、元手のいらないものです。

しかし、笑うというのは大人になるにつれて一日の笑う回数が少なくなるのは皆さん身に覚えがあるのではないでしょうか。

子供だと平均3~500回一日で笑うのに、大人は15回前後だということです。

近年では、笑うということは私たちの体に様々な良い影響があることが知られてきました。

調べればたくさん出てきますが、食後の血糖値が下がったり、免疫が活発になったり、よく出かけて人に会って笑うというのは最も簡単にできる万能薬です。

ちなみに、お経でもそういったことが言われています。

ニュースを見ていると悲惨な気持ちになることも多いですが、やはり一番は笑顔で楽しくが百薬の長だと思います。

おかげさまで無事に節分が終わりました

節分の朝は非常にいい天気でした

ご来光が普段以上に神々しく感じて思わず一枚

光の加減もあり、まるでお大師様が実際に来られたかのような一枚が出来上がりました

2月3日の開白より、9日の結願に至るまで毎日お参りに来ていただいた方には感謝の念が絶えません。

やはり、1週間という時間は短いようで長いようで、やっぱり短いのですが、終わると良い時間だったなーという思いと共に、ホッとした気持ちが出てきます

まぁ、気持ちが緩んだので、本来なら9日に書くはずのこの記事を11日という今日書いているのですが、そこはご容赦を

写真で見えている右側が私(副住職)です。護摩の火を上げるサポートをしております。

そして手前に座ってお勤めを行っているのが、光明寺の住職の父になります。

そして、奥に見えるのがこの日のメイン。

風呂敷加持(ふろしきかじ)というものを行っている広島の安楽坊さんです。

風呂敷加持というものは、護摩のお勤めでできた火というものは非常にご利益があるとされているのですが、それをなんと火種を取り、風呂敷の上に轢いてある檜葉の上に乗せ、くるんでしまって、その温かみをお参りの方に直接あてることによって、仏様の温かみ(私たちは仏の慈悲の暖かさと言っています)を感じていただく、というものです。

なかなか簡単そうにしてくれるこの風呂敷加持ですが、簡単なだけに難しく、上手に行ってくれる人というのは意外と少ないのです。

その点、安楽坊さんはベテランなうえに手早く、そして盛大に(ここ大事ですw)行っていただけるので、安心してこちらもお任せできています。

このように初めてのお参りの男の子も、無事に加持をしてもらえて、この後非常に満足している様子でした。

お勤めが終われば、無事にお話しとなるのですが、この日はスポットの光が逆光になってしまい、皆さんに後光が当たっている構図になりました。

いつもなら、安楽坊さん、そして、神戸の一言寺さんというお手伝いしていただく方からもお言葉をいただくのですが、なんとこの日は一言寺さんが欠席ということで、その代理で来てもらったのは、一言寺の副住職、お子さんです。

私の二つ下になるのですが、お勤めの時の太鼓は上手に叩くわ、人当たりもいいわ、そして、最後の挨拶で慌てるのかと思いきや、非常に素晴らしい挨拶と自己紹介、そして光明寺の感想を言っていただき、来ていただいてる方々はみんな大喜び。

そして、その話を聞いていた光明寺の住職の目にも涙がほろり

どうやら、子供のころから知っているので、大きくなってくれた姿に感動したようです。

思わず、負けたな、と思った次第です。

そんな一言寺の副住職さんですが、どうやら光明寺のお勤めに感動してもらった様子。

光明寺のお勤めは、お坊さんとお参りの方みんなで作っているので、一体感が全然違ったそうです。

そう言っていただけるお勤めになったのも、みなさんが早朝の中なのに、たくさんお参りに来ていただいたおかげでございます。

日ごろからのご尽力に改めて感謝します。

今年も一年、皆様の星と共に運勢が良い一年になるように、光明寺よりお祈りしております。

節分 始まりましたよ

今年も始まりましたね、光明寺の一大行事「節分星祭」です

この日の為に皆さんからお受けした、お札を作って参りました。

しまった、お札を見やすく写真撮るのを忘れていました。

見えにくいとは思いますが、正面の観音様の両脇にある白いものが全部お札です。

そもそも、星祭とは私たちが生まれたときに背負う運命、これを仏教では業と言います。

よく私たちが「この子は~の星の下に生まれてきたに違いない」とか言う星です。

これは各々生まれた年などによって違うので、それぞれの星を供養することで自分の今年一年の運勢を上げていこうという趣旨のものです。

これの大本は、お大師様が唐より持って帰ってきていただいたお経の中に「宿曜経」というものが含まれており、それに基づいた方法でお勤めを行っています。

ちなみに、この宿曜経非常にわかりやすく、詳しく書いてくれているので、たびたび女性週刊誌の~占いで名前だけ変えて掲載されているのを見つけます。

そのたびに私は思わず笑ってしまうのですが、それだけ広く広まっているということですよね。

皆さん事前にお札を申し込んでいただいた方がお参りに来られます。

自分の運勢がかかっているだけに、真剣なお顔です。

なお、仏教や神道で使う数え年というものですが、これは一般に自分の満年齢(普段使っている歳)に一歳足すことで出すことができますが、なぜこのような数え方になるかというと、お母さんのお腹の中にいるときから歳を数えていたからです。

さらには、旧暦ではこの節分が正月に当たり、歳を超えたら誕生日が来なくても皆さん自動的に+1歳になっていたので、ちょっとややこしい数え方になるんです。

私の身近にも、33と思っていたのが、暦でみたら35だったというのでショックを受けたという笑い話がありました。

脱線した話はさておき、10時になるとお堂の周りに暗幕を垂らしているので、電気を消して暗くして護摩のお勤めを始めました。

普段とは違う雰囲気にお参りに来た子供もワクワク半分、ドキドキ半分の様子。

お勤めが終われば、いつものお手伝いに来てくれるお坊さんからお話しをいただきます。

今回は近場のおばあさんがいつも口癖にしている「朝を迎えれてよかった」という話をしておられました。

私たちは当たり前のように次の日の朝を迎えていますが、それはすごく奇跡的なことで、いつ心臓が止まるかもわからないし、病気で亡くなるかもしれない。

それを高齢になって初めて実感して、朝起きるたびに、今日も一日の始まりを迎えれました、ありがとうと感謝する。という趣旨のお話しでした。

私も若いからと言って、知らんぷりできないので、心に留め置きます。

それが終わればお接待の善哉です。

この日の善哉は5~6回小豆を焚きこんで、味を染み込ませた特別性。

お餅はなんと朝一番にお店でついてもらった出来立てです。

皆さん美味しいものを前にすると目の色が変わるのは、子供も大人も変わりませんね。

美味しく食べていただけたのは、出す方としても一安心でした。

この2月3日を境に、ここから一週間、護摩のお勤めを続けてお札にお願いごとを込め続けます。

そのお札は2月9日に出来上がるのですが、光明寺では9日までどこへお参りに来ていただいても皆さんのお参りを歓迎いたします。

是非、お時間を見つけていただいて一緒にお札の祈願を行いましょう。

新年の初大師

本日は本堂での護摩のお勤めから、その後檀家の皆さんでお昼を食べてみんなでお大師様のお勤めを午後に行いました。

写真で見る限りでは、午前中の護摩も賑わったようです。

実は私、今日の午前中は姫路のお寺に初護摩のお手伝い行っておりまして、それが終わって慌てて光明寺までとんぼ返りしてきたのです。

思えば、去年からずいぶんとお仕事のお声をかけてくれるようになり、嬉しいしだいです。

すぐ舞い上がって天狗になる性分なので、天狗にならないように気をつけねばw

写真は午後からのお大師様のお勤めの写真です。

私と住職が並んで皆さんの音頭を取っています。

ちょっと小さくて見えずらいですが、わたしが皆さんの前で場つなぎでお話しをさせていただきました。

思えば、記憶にある中で一番初めにこの場で話をしたのは確か23ぐらい、信貴山に行っていたときであったかなと思います。

当初は法話とも、漫談ともならないものだったと思いますが、その若造も8年の歳月で、一応本山布教師心得の資格をいただき、高野山の山の上で皆さんにお話しをするまでになることができました。

去年の自分の中で一番変化が大きかったことはやはり、その布教師関係でしょうか。

高野山という山の上でお大師様のお手替わりとして話すようになると、いかに自分が勉強不足だったのかを痛感いたしました。

それからいろいろな知識を求めだして、書籍を読むようになったのはつい最近のことです。

しかし、いろんなものを読んで、新しい知識に出会うほどにお大師様の教えが、いかに端的で的確な美しいものかということに感嘆の念を覚えます。

そうして、いろんな感動を覚えるうちに私の中にわいてきたのが、お大師様の教えの基本を誰もしたことのないぐらい現代の知識を使って、皆さんにお披露目しようという気持ちです。

ですので、私のお話しはわかりやすさ重視の基本的なことしか入ってません。

今日皆さんの前で話した感謝についても、今更言う必要のないほど基本的なことですが、基本というのはやはり、根本であるがゆえに忘れやすいものと思います。

少年野球をやっていたころから、何度基本をないがしろにして怒られたことか。

基本を忘れないための感謝日記、お金もたまる感謝日記、おすすめですw

私の話はこの御詠歌のための前座でした。

大会に出られた御詠歌「遍照」をみんなの前で披露していただいて、今日の長い一日は無事に幕を閉じました。

半年に一度、行っているこのお大師様のお勤めですが、絶えることなく続けてこれるのは皆さんの協力あってのこと。

製品化された奇麗な行事ではなく、手作り感の溢れる暖かい行事で行えていることに感謝の念が絶えません。

朝から来ていただいて、みんなのお昼の用意をしてくれた当番の方々、お参りに来てくれた皆さんありがとうございました。

師走 護摩の火 文化の日

今年も無事に一年が終わろうとしています。

12月のことを日本独自の読み方で師走(しわす)と言いますが、由来としては、年末になるとお坊さんが忙しく走り回っている様子からつけられたとか。

あくまでも一説なので、他にもいろんな説があるのですが、年末は確かに忙しい時期ですよね。

お坊さんだけじゃなしに、みんな走り回る今日この頃

光明寺の紅葉スポットの木も走りつかれたのか、葉っぱがなくなって疲れている様子

やはり枝だけになるとずいぶん雰囲気も変わるものですね。

でも、この日は天気は快晴だったので、お天道様には微笑みかけられたかな?

そんな快晴の天気の中始まった終い大師ですが、、、ちなみに年末の縁日のことを終い~という言い回しがお寺にはあります。

終い大師とか終い不動とかですね、探せばもっと使っているところもあるはず。

脱線しました。

この日の終い大師は土曜日でしたが、お参りの方は9人でした。

やはり、年末になると皆さん地区の当番やら他の行事などいろいろ走り回っているようで忙しそう。

そんな中でもいつも通りの定刻に始まったのですが、いざ願文を住職が読み上げようとしたところでトラブルが!

なんと、風邪をひいていたおかげで声が出ない。

ボイスチェンジャー通したような声になっていましたが、なんとか最後まで読み切っていました。

風邪が流行っているみたいで、私ももらわないように気を付けないと。

護摩のお勤めが終われば、この日は嬉しい知らせが一つ。

なんと、いつもお参りに来てくれている人が、少し重い病気だったのですが、本尊様の御利益をいただいて、無事に半年ほど時間をかけて回復できたと、感謝のお供え物を預かりました。

名前は白くぼかしましたが、嬉しかったので写真をアップ。

お供えした後に、お参りの方皆さんとおすそ分けを行い、美味しくいただきました。

やはり吉報の知らせは嬉しいですね。

こちらまで笑顔と元気をいただける瞬間でした。

さて、そのお菓子を食べながら住職の話です。

お経で喉のウォーミングアップができたのか、声はよく出ている。

、、、さっきの願文はなんだったんだw

その内容は、文化って大事よねって内容だったのですが。

文化が衰退した集団というのは、やはりその人口も勢いも衰退していきます。

どんなに一時は人口が増えて、勢いがあるように見えても、文化が根付かないものは末路は同じだと、歴史学者の先生から聞いたようです。

日本各地にある、バブルの時に建てられて、今はほぼ過疎地扱いになっているベットタウンが、まさにこれの典型例だと言っていました。

しかし、反対に人口が少なくても、どんなにめんどくさくても、自分たちの確固たる文化を持っている集団というのは、息が長くしぶとく存在し続けているとのこと。

私たち田舎の人間もしかり。

人がいなくなると、ずっと言われていますが、しかし、しぶといw

しかし、最近は田舎の人たちが、自分たちの守ってきた文化を古臭いものだからと、自分たちで放棄する流れになってきていると、その学者さんは危惧していたそうです。

「田舎だからなにもない」じゃなく、「田舎だから、都会にはない文化が溢れている」

そういうことなんだそうです。

なるほど、これは確かに!

だから、どんなにめんどくさくても、自分たちの文化をなくしてはいけないですよ?という話でした。

確かにめんどくさいと思うことは多々ありますが、それのおかげで今があると言われたら、うーむ、なるほどと感心させられます。

ですので皆さん、めんどくさいけど、大掃除しましょうね?

11月21日 護摩の日

今月も21日がやって参りました。

早いもので今年もあと一か月でございます。

いつの間にか、年月の過ぎているのが早くなったことで。

今年は激動の年でもあったので、余計に早く感じるのかもしれません。

時間は大事にせねば。

さて、本日21日は毎月恒例護摩の日でございます。

今回はちょっと趣向を変えて写真の解説と行おうと思います。

上の写真は住職が護摩の願文(ガンモン)を読んでいるところです。

願文とは、この護摩のお勤めがどのような意図で行われて、誰に何をお願いしているのか、仏様に直接声でお伝えする作法です。

ちなみに、光明寺本堂の護摩は、お不動様にお参りの方と一緒に護摩の火とお経を手向けるので、ご利益をお願いしますと言っています。

この願文という作法は、大きなお勤めならば、だいたい行われていますが、それは住職が必ず行わないといけないという決まりはないので、若手だったり、老僧だったり、いろんな人が読みます。

他所のお勤めに合われたときは、意識して見てみると面白いかもしれません。

お勤めが終われば、住職と真楽寺さんのお話しです。

いつもの記事は、このお話しの内容を詳しく書いていたりするのですが、今日は割愛ですw

普段と違う形で、護摩の終わった後の掃除の写真を乗せてみます。

写真は壇の上の窯の中にたまった灰を取って奇麗にするのですが、使っているのは中華のお玉です。

いろいろ使ってみたのですが、これが一番使い勝手が良かったです。

ホームセンターで購入です。

そして、壇の上の仏具をすべて退けて奇麗にした後、座っていた台座を退かして掃除機できれいにした後、雑巾できれいに拭きます。

意外といろんなゴミが落ちているうえに、室内で火を焚いているので、拭き掃除が欠かせません。

これを怠けると、直ぐに靴下が黒くなってしまいます。

それらが終わって無事にこの形に戻ってこれます。

いかがでしょうか。

ちょっと普段とは違う視点で書いてみました。

纏めてたくさん

この近辺、いろんなことがおきてなかなか更新できずにいたのですいません。

ようやく更新です。

まずは報告から

この17日、高野山で正解平和を祈るお勤めが行われて、それに出席してきました

当日は、日本のお坊さん150人と、チベットから来たお坊さん300人の大集団に

見知ったお堂の中が、まるで知らない空間のようになっていました。

写真は私が移っているところですが、残念ながら今回写真を撮る機会があまりなかったので、知り合いの方に取っていただいたこの2枚しかありませんでした。

もっと、とりたかったのに残念。

19日に目の前にある老人ホームへの慰問に行かせてもらいました。

これは2回目ということもあり、前回よりは皆さん落ち着いて話を聞いていただいていたご様子。

落ち着きすぎて、気持ちよさそうに寝ている方もいらっしゃいました(笑)

ですが、それだけ安心していただけるというのは、やはりお話し冥利に尽きるかなと思います。

私は普段お話しの中で、人の興味を引くために科学分野のお話をしますが、その大本の目的はやはり、皆さんに安心して穏やかに日常生活を送ってほしいという思いからですので、目の前で気持ちよさそうに寝てくれているおじいちゃん、おばあちゃんを目にすると、腹など立ちません。

むしろ、ちょっと嬉しくなって帰ってきました。

そして21日は毎月の本堂での護摩のお勤めです。

いつも通り行われたのですが、この日ちょっと違ったのは、お勤め終わってみんなで食べるお接待をいつも用意させていただくのですが、この日はなんとマツタケご飯を用意することができました。

というのも、私がこのあいだ高野山にお手伝いに行ったのですが、そこのお土産としてマツタケを持たせていただいたのが理由です。

自分だけで食べてもつまらないので、皆さんと一緒にいただくことができました。

ホントみんなで食べると美味しかった。

これが仏教の利他行なのかな?と実感する次第でしたw

というのも、今の日本の環境ならば、成人して給料をもらうようになると、自分個人のことに限定するならば、だいたいやりたいこと全てできると思いますが、しかし、個人で楽しんでいると、それ以上喜びは広がりません。

今回ならば、マツタケ確かに美味しいですが、一人で食べても所詮キノコですし、マツタケ美味しかったで終わってしまうと思いますが、みんなで分けたからこその、みんなの笑顔を見せてくれたマツタケご飯最高と思うことができました。

ホントみんなで楽しんでよかった。

情けは人の為ならず

ホントに人の為に何かすると、それが自分の為になって帰ってくるのだなと思った今日この頃でした。

合掌