自分の善行は誰のもの?

皆さんこんにちは、副住職の隆照です

奇麗な紅葉も、落葉が続けば終わりが見えて、少し物悲しい風景になりつつありますね

光明寺の今年の紅葉は、残念ながら紅一色というわけにはいきませんでした

夏の台風直撃のあおりを受けて、沿岸部から海水が飛んできてしまい、山の木々たちがダメージを受けてしまったために、なんとも中途半端な色づきになりました

まぁ、自然の摂理ですので、そんなこともありますよね

毎年全てが思い通りにはならないものです

諸行無常ですねぇ

21日には光明寺本堂での護摩が無事に勤修されました

この日は天気も良く、11月とは思えないぐらいの温暖な日で、秋の収穫を終えられて、お仕事の方がひと段落された皆様が久々の出席で、本堂が賑やかな雰囲気でした

天気が良かったので、朝には霧が立ち込め、護摩の時間まで残っています

ちょっと写真は撮れてないのですが、朝のお勤めの時間には、ここからの景色は白一色で霧が立ち込めています

最近、信貴山での修行時代に、師匠がよく言っていた言葉を思い出します

「先人先徳」(せんじんせんとく)とよく言われていました

自分の親や曾祖父、さらにそこから続いていく先祖の方々が、いろんな善い行いをして、徳を積み重ねてきたのが、今を生きている私たちに降り注いで良い影響を与えている。だから、その積み重ねた徳の貯金を使って私たちが成長し、使い切らないうちに今度は貯める側に回らなければいけない

と、こんなことをずっと言われていたのですが、当時は私自身あまりピンとこず、もっと別のことを言えばいいのに、と不遜にも考えていました

ところが最近、いろんなご家族の方を見ていて、この先人先徳というのが、まさにぴったりだなと思うようになってきました

・・・当時の私はずいぶんと修行不足でしたね

一家のお父さんが亡くなって、その人を慕って様々な人が集い、そこから新しい縁が結ばれていく

つい先日、ちょっと訪ねたお家がそんな状況だったのですが、まさにこの言葉通りだな、と感じていました

仕事ができて、面倒見がよく、誰からも好かれる人徳者だった、私はそんな風に聞いています

この個人主義の時代ですので、良い人になっていい行いをして徳を積んでも、自分には何の見返りもない!損だ!という意見を言う人もいるでしょう

ですが、良い行いは、仮に自分に還ってこなかったとしても、自分の伴侶や子供たちに回ってきます

このあいだ集まった人たちの関心は、亡くなった人の子供さんたちへ

元気に過ごしているのかとか、学校では上手くいっているのかとか、当たり前ですが、暖かい会話でした

類は友を呼ぶ、亡くなった良い人を慕って集まったのは、やっぱり皆良い人たちでした

集まった良い大人たちの暖かい影響を少しでも受けて、強く大きく育ってくれたらいいなと、少し会っただけですが、私も強くそう思います

私たちは、先人の徳のおかげで知らない間に育って、そして気づいた時には、今度徳を貯めてあげる側になっていく

このサイクルがずっと昔から続いていますし、それは変わらないのだと思います

ですので、身近な善行から始めてみてください

まずは笑顔で挨拶と、身の回り、普段使っている物、場所の掃除からですかね

それだけで十分、徳の貯金にはなっていますよ

自分の為ではなく、子供の為、伴侶の為、孫の為

徳の貯金をしているときのあなたの顔は、きっと優しい仏の顔になっているはず

グーグルの記載方法が少し変わりました

10月になり、ぐっと寒くなる日も多くなってきました

表題にも書いているとおり、このページに来ていただく方法が少し変わりました

直接ブックマークで来ていただいている方には関係ないのですが、検索してから来てもらっている人は、一度別のページに飛んでから、ここのリンクを押してもらう形になります

光明寺では、良い秋晴れの一日の中で護摩のお勤めを迎えることができました

護摩のお話しを書こうかなとも思ったのですが、普段は書かないお勤めの周りの道具など少し書いてみようかなと思います

写真は毎月本堂側面に掛けていますお軸、これはなにかというと、四国88か所の「お砂踏み」と言いまして、ご当地のお寺の土を袋の中に入れておりまして、私のおじいちゃん、皆さんの協力を得て私の祖父の代に作ったものです

これの意味は、現地までお参りに行けない人たちの為に、現地の土を踏むことでお参りしたと同じご利益を得てもらおうということで始まったものです

光明寺では毎月の護摩のお勤めの度に、違う札所の軸を8つ掛けまして皆さんにお参りしてもらっています

写真のコの字は燃える香の粉で作っているもので、私たちのお勤めの最中は、これが必ず燃えております

燃え尽きるとこのような感じになるので、新しく人力で作り直します

こういう道具を使って作ります

私たちお坊さんが、最初の下働きとして叩き込まれるのが、この作業で色々怒られながら、注文をつけられながら上手くなってきました

私の下積み時代の作業は未だに日々の生活の中で続いております

写真は仏様にお供えしているご飯「仏飯」です

私たちの朝炊いたお米を、朝ごはんの前に少し取って、仏様に最初にお供えしております

別に食べ物なら何でもいいのです、白ご飯でも食パンでも仏壇にお供えしてあげてください

まだまだ出そうと思えば色々ありますが、それはまた次に

住職の護摩の後、夜に護摩のお勤めを始めて3か月目

6時半から火を上げて、副住職の私が護摩を行っておりますが、まだまだ自身の修行不足を感じているところです

ですが、私たちと同じ若い世代が、なかなかお参りできないとの声をいただいているので、いつかは皆様に来ていただけるよう続けていこうと思っています

修行不足といえば、最近子育てでも自分の修行不足を感じ、改めて「親になる」というのは難しいと感じています

自分以外の人間の世話をして、育てていくことのなんと難しいことでしょうか

自分もやってもらったことなので、文句は言えぬと思い精進していきます

私たち人間って動物なので、本能とは切っても切り離せるものではないと思っています

そんな中で、子どもは誰に教えられるでもなく、健康な夫婦であれば勝手に出来るかと思います

しかし、勝手に子どもはできたとしても、残念ながら、勝手に親にはなれません

特に男性陣は母性本能など持っておらず、何も意識しなければ子どもができた後も、変わらず遊び呆ける人間もでてきます

だからこそ、どうありたいか?どんな親になりたいか?という理想を胸に抱き、理想とのギャップに悶えながらも過ごしていくしか無いと考えています

私たちお坊さんは、日々の朝のお勤めの中、仏心という仏様の心を持った生き仏になりたいと日々願い修行しております

最初は届かなくても、捨てず諦めず、面倒くても続ける

そんな修行を何十年か続けた後、もしかしたら生き仏と言われるようになれているかな?

…もしかしたらクソ坊主と言われているかもしれません(笑)

親も、お坊さんも両方とも難しいですが、ボチボチ続けていってみようと思います

お彼岸は残念なことになりました

皆さんこんにちは、副住職の隆照です

このブログを書いているのはお彼岸の真っ最中ですが、本来忙しいはずの期間ですが残念なことに、15日から光明寺は一堂が次々とコロナにかかってしまい、今は一切の行事活動を停止しています

本来なら隔離期間は住職で22日、私で23日には終わりますが、やはり色々調べたり聞いていると症状が無くなっても10日ほどはウイルスは潜んでいる危険があるようなので、お参りに行って万が一があってはいけないとの住職の判断で、お彼岸の行事一切を中止しました

楽しみにしていただいてた方々には申し訳ないですが、ご理解の程お願いします

大師講は中止になってしまいましたが、護摩のお勤めは住職の意思で「毎月の決まった時間に行っているのが仏様との約束であり、それをこちらの都合でやめるわけにはいかない」ということで本堂でお勤めは行いました

もちろん誰も参拝は来ないようにして、です

幸いにして、光明寺一同は息子も例外なくコロナの高熱に見舞われましたが、無事に回復し後遺症を感じることもなく過ごしています

実は先月より副住職も護摩のお勤めをしています

その写真がこちら

色々思うことがありまして、私も本尊さんにお力を貸していただきたく始めました

どうせなら住職とは全く違う時間帯でやろうと思い、夜の7時半ぐらいまでに終わる形で行っています

朝方はなかなか時間の都合がつかないけど夜ならば、という方がいらっしゃればどうぞお気軽にご参加ください

台風がすぎて幾分か涼しいですね

みなさんこんにちは、副住職の隆照です

夜の温度が台風の後はなんとか下がるようになってきて、少しホッとしました

沖縄の方では連日台風に悩まされているニュースを見ると、台風のおかげで涼しくなったと喜ぶのも少し気が引けるかな?という心持です

本日の第二日曜日の奥の院の護摩は天気にも恵まれて、まだ気温が上がり切る前の午前中に無事に行うことができました

最も、これを書いているときは午後の一番熱い時間ですので、体感の温度は真夏と変わりません

気温よ、もう少しさがっておくれ

ともあれ、奥の院はさすが山の中といいますか、やはり上がると周囲より気温が低く感じます

朝一番に登ってお勤めの準備をしようかと思ったら、嫌な羽音

何事かと裏を見てみると、出入りしておりました

スズメバチがせっせと動いているではありませんか

いつの間に巣を作ったのか、大きくなるまで全く気付かなかったのは流石野生というべきでしょうか

しかたないので、裏の窓は開けずに入ってこないように対策してのお勤めです

巣は後日、住職と私で床板剥いで駆除することになりました

ネタ写真撮れたら上げますね

そんなトラブルはありましたが、お勤め自体は何事もなく行うことができました

今月も沢山の方のお参りをいただきありがとうございます

親子連れや友人と、来られるスタイルは様々ですが皆さん一様にスッキリして帰って行っていただけているのが私たちとしても本当に喜ばしいところです

このブログを書いた後は実は私は京都の智積院に行かなければいけなくなってしまったのです

真言宗の各本山(高野山や中山寺、須磨寺など)から推薦された若手が集まる研修会だそうですが、なんと高野山からの推薦を受けてしまって・・・もっと優秀な若手に回してほしかった(笑)

推薦をする人が昔から縁のある人でして断るに断れず、人選間違いという思いが胸に一杯広がる中ですが、もう開き直ってこのご縁に感謝していってきます

・・・盛大に失敗したらブログに書くかもしれません(笑)

今年も無事に夏が終わりました

みなさんこんにちは、副住職の隆照です

今年のお盆もとっても暑かったですが、みなさんいかがお過ごしですか?

コロナも高止まりが続いている状況で、なかなか動きづらいことも多かったかと思います

光明寺や私の手伝っている姫路のお寺、また友人のお坊さんからも、お盆参りにいく予定のお家が一家揃ってコロナになってしまい、お参りを中止するということが多数ありました

お坊さんもコロナになっていたという話をチラホラと耳にするので、ずいぶん身近なものになってきたという感じでしょうか

コロナになってからは毎年のごとく暗中模索状態のお寺の行事ですが、なんとか今年も無事に夏を乗り切ることができました

お盆参り中などは時勢を鑑みて、普段お茶を入れてくださるお家がペットボトルのお茶を接待していただき、そういったお家が続くとバイクに積みきれなくなり途中でお寺に荷物を下しに立ち寄るといったことが何度かありました

一日終われば業者さんのような飲み物とお菓子の量になります

さすがに当日中に私一人でいただくことは不可能でしたが、この時期はたくさんの人がお寺に参ってこられるので、皆さんに食べて飲んでいただき、また護摩と地蔵盆の行事でみなさんと分け合って一緒に頂きました

いろんなお接待をしてくださった皆様ありがとうございます

今年はいつも地蔵盆でお話しをしていただいていた吉田僧正がちょっと都合が悪かったので、藤田僧正(神戸、一言寺住職)にお願いしました

実はこの方、光明寺の住職の高野山に修行に上がった時からの同級生で、もう誰よりもお互いに良く知っている間柄というわけです

今年のお話しは時間も短く30分ぐらいでお願いしていたので、お勤めが始まる前に法話と今から行う施餓鬼のお勤めの説明のような形でしていただきました

この形が藤田僧正の得意とするところで、実はこの方神戸で何もないところから、ご自身でお寺を立ち上げられて、皆さんに信仰とは?ご先祖供養とは?というところを一から説明してこられた方です

そのお話しは流石というもので、身近な例え話で分かりやすいだけでなく、ご自身の熱意がこもったものでした

先日に悲しいニュースのあった統一教会のお話しもきっちりされて、私たち既存の宗教と新興宗教と呼ばれるものの何が違うのか?もしっかりと、お坊さんとしての見解を話しておられました

私たち既存の宗教をよく漢方に例えられます

飲んですぐ効いているのかはしっかりとわかりませんが、続けていればやがて仏様や神様のお力を少しづついただいて、やがて「やっていてよかったなー」と思えるもの

この「やっていてよかったなー」という感覚を得られることを私たちは安心(あんじん)と言っています

この安心を得られることこそが全ての目的であり、そのために様々な努力を重ねていっています

対して、新興宗教というのは劇薬といわれます

飲んですぐに効果がでて一見良いように思いますが、人生の長い時間の中で、劇薬で一時良くなったとしても、長い目で見れば結局副作用で悪くなっていく

奇麗ごとかもしれませんが、宗教は一人が笑って他の人が泣くというのではなく、みんなが笑顔でいられるというのを目指さなければいけないのです、ということを最初に話してから、じゃあ皆で笑顔にするために今日の施餓鬼というお勤めは何をしているのか?という説明からでした

一般にお盆というのはご先祖様が帰ってくる行事というのが皆さんのイメージでしょうが、本当の目的というのはその先にあります

これは古代インド、お釈迦様の時代の木蓮上人というお坊さんのお話しが元になっているのですが、今回は木蓮さんのお話しは長くなるので割愛します

タイプするのが大変なので(笑)

ネットで検索していただければ直ぐ出てくるので、興味ある方はそちらもどうぞ

ともあれ、木蓮さんの物語に端を発したお盆は、帰ってきてくれたご先祖様にお供え物を食べてもらって、その御下がりというちょっとお粗末なものを誰も助けてくれない霊たち、身寄りが無かったり、地獄に落ちていたりと可哀そうな者たちに施します

これでも食べて飢えと渇きを癒してくださいね、と

その行為が精霊流しだったり、地蔵盆でたくさんお供えをしたりというものです

飢えている霊たちは、本人の意思とは関係なく悪さを働いてしまうと仏教では言われています

そんな方たちは悪さを働くがゆえに、自分では救われていくことのない悪循環の中にいるので、そんな霊たちにも救いの手を差し伸べて、自分ところの先祖様と一緒にみんなで笑顔になりましょうというお勤めが施餓鬼供養というものです

ここからはあくまで私、副住職の私見ですが、宗教の行事には自分たちへのメッセージが含まれていると考えています

私たちは仕事や私生活で上手くいっているときは全部自分の功績で、もらった物は全部自分のものと考えてしまいます

これは人間なので当たり前にそう考えると思いますが、そこで少し待ったをかけてくれるのが宗教の教えかと思います

全部自分で良いことを独占しては、妬みも買いますし敵も沢山作ります

そんな行為は餓鬼と変わらないうえに、上手くいかない時期がやってきたときに誰も自分のことを助けてくれないことになってしまいます

そうならないために、自分で奢らず独占せず、周囲と上手く笑顔を分かち合いなさいと、毎年言われている気がします

子供が産まれて、皆さんの助けというものを借りながら親をやっていると、さらに強く思うようになりました

独占するのと分かち合うこと、どちらが漢方薬のように私たちの人生に効いてくるか、このお盆を機に少し皆さんも考えてみてください

暑いのですが、皆さん元気ですか?

皆さんこんにちは、副住職の隆照です

7月に入って暑い日と激しい雨が交互にやってきている感じですね

生活の方は被害が出ていないでしょうか?

日曜日に行われた奥の院の護摩も当日は晴れの天気でしたが、前日の用意の時に激しい雨に見舞われ、案の定私たちはびしょ濡れになりました

…草刈りするのにはちょうどいいのですがね笑

お山の護摩は今月も多くの大人と子どもたちの参加をいただきありがたいかぎりです

今月は友人の奥さんが逆子との診断をうけ、できれば自然に治ってほしいのでお札を作って祈願して、とのお願いを受けました

その願いを受けさっそくお札を製作して、毎日のお勤めと護摩で祈願します

祈願して全てが上手くいくのか?私たちお坊さんも全部上手くなるなど思っていませんし、しっかりとお医者さんの言うことを聞いてもらうのがまず第一ですが、そこにプラスαの要素として仏様の力添えをいただく

そうすることによって、普段仏様の力を実感している我々ですら「不思議ですね」と思うようなご加護があったりします

それも施主さんが毎日努力しているから、そこに仏様のお力添えが少しだけ入ってくるのだろうと思います

9割の努力と1割の力添えです

私たちは、お願いごとを仏様に伝えるお手伝いをしているだけです

良いご利益があって、無事に産まれてくれたらと願っています

暑い日が続きますが、田植えはひと段落?

皆さんこんにちは、副住職の隆照です

今年は一気に暑い梅雨になりましたね

沖縄の方ではもう梅雨が明けたと聞きましたが、本州はこれからが本番ですね

21日の光明寺護摩では、皆さん田植えや畑仕事がひと段落された人たちが、多く参拝に来てくれて賑やかなお勤めとなりました

先月から暑い中動かれていた男性陣はもう真っ黒の日焼けで、非常に格好いい出で立ちです

先月から写真を載せて成長を見守ってきた燕ですが、なんと!いつのまにか巣立っていました(笑)

ずいぶん大きくなってきたな、と思ってはいたのですが、少し出張していた間に巣立っていたので、飛び立ちを見るのが叶わなかったのが残念ではありますが、ここまで大きくなってくれたと思うと感動するものがあります

無事に生きていってくれよ!

そんな飛び去った後の巣ですが、燕たちは後続の輩が拝借しようと巣を見に来る光景がたびたび見受けられます

新しい家族ができてくれたら、ついに我が家も大家さんですかね?(笑)

家賃は幸福を運ぶ鳥ですので、福をもってきてください

久ぶりに写真をあげます、若女将の仕事シリーズ

護摩の日は生憎の雨模様でしたので、お勤め前の用意に傘をさして荷物持ちです

なお、正面からの写真はなかなか女性陣は撮らせてくれませんので、これで皆さん仕事風景を想像してください

産後で体調の不安定さもありますが、なんだかんだ元気にお寺の業務を手伝ってくれています

ホント頼もしいですわ

お勤めには我が子も参加しており、皆さまからの声掛けがホントに暖かい限りです

護摩が終われば法話ですが、今日は真楽寺さんがとっても面白い話をしてくれてみんな興味深々

般若心経の話でしたが、お経の中に漢文として書かれていることはそのままでは、難しすぎて内容を考える気にもなりませんが、それを親近感のある情景ではなしてくれていました

曰く、お釈迦様が観音菩薩様に悟りの境地の話をされたのですが、その内容とは難しい言葉すぎてよくわからない、全部を理解しようとするととってもややこしいことになってしまうので、もっと簡単にいきましょう

楽しく心地よければ良いんです

・・・なんだか怪しい麻薬のブローカーみたいになりましたが違います

世の中の皆さんが経験すること全てに悟りの境地が潜んでいて、楽しい遊びはもちろんのこと悲しいことや色恋沙汰、苦しい経験もすべてやり終えた後に、自分でやってよかったな!と感じて心地良く感じることができれば、それが悟っているということです

この護摩のお勤めもそうですが、普通に考えれば冷房の入っていない暑いお堂の中で、護摩の煙に巻かれながら座っているのなんか大変に決まっています

ですが、出席していただいた方ならわかると思いますが、そこには不思議な楽しさや心地よさがあるはずです

その気持ちを感じることこそ悟りの境地で、普段の生活の中の体験でもその気持ちを感じ取れるようになることが修行であり、境地への到達と説明されました

私もこの般若心経の話を始めて聞き、早10年

なかなか修行の道半ばで、理想には至らぬなぁと感じることが多いですが、皆さんと共に境地に至れるように精進していければな、と思っています

燕も大きくなりました

みなさんこんにちは、副住職の隆照です

6月は農家の皆さんが田んぼに追われてとても忙しそうにしています

写真である奥の院の護摩の用意に走りまわっていると、あちこちで田植えの稲を満載した軽トラとすれ違います

天気の良い日が続きましたから、みなさん真っ黒に焼けてとてもワイルド

ほんと若造には出せない魅力で羨ましいです

タイトルでも書きましたが、我が家の燕の雛がずいぶんと大きくなってきました

写真では少しわかりづらいかもしれません

3羽いて、手前に頭が一つ、奥に二つあるのがわかりますかね?

親鳥も子育てに大忙しの様子で、巣を頻繁に出入りしています

その光景をみると思わず親近感を覚えます

お互い大変だね~

奥の院の護摩のお勤めは、今月も沢山の方がお参りしてくださいまして、お堂は満員状態です

今月はそんな中でも嬉しいニュースがありました看護学校の学生さんが一人、就職が決まったとのことで、幸せのおすそ分けとして皆さんにお菓子の差し入れがありました

その子のお母さんもおばあちゃんも、ずっと娘さんの進路がうまくいくように、お祈りしてましたから少しかもしれませんが、おかげさんをもらってくれたのではないかと思います

もちろん本人の努力が大前提ですので、そこはほんとによく頑張っていると思います

こういう場で喜びの報告ができるというのは、周りの人もいい気持ちになれるうえに、みんなからおめでとうの言葉がくるので、本人としても沢山の人から声をかけてもらえると嬉しくなれると思います

昔から使い古されている言葉ですが、喜びは倍になりますね

最近はなにかしているとふと思うのですが、人の人生って自分一人のことならば、やろうと思えば一人でやっていくことはそれなりにできると思います

ですが、やはりそれなりで、周りの人たちの助けを借りないと何処かで無理が祟るのだろうなと感じています

私も息子が産まれたときに多くの人に助けられ、支えられてよく感じました

受けたご恩はとても多く、なかなか返しきれるものではないかもしれませんが、それを少しづつでも周りの人に返していきたいと思うのです

その手始めとして、やはり喜ぶことは一緒に喜んで、悲しきことは一緒に共有する

簡単ですが、とっても基本かなと思っています

5月は鯉のぼりが泳ぎます

皆さんこんにちは、副住職の隆照です

5月は非常に天気の良い日が多く、よい季節を過ごされているのではないでしょうか?

私もおかげさまで忙しい日を過ごしております

先月から上げ始めた鯉のぼりですが、いよいよシーズンとなって各家で上がり始めました

最近は上げる家も少なくなってきたとはいえ、探せばよく目につくもので、自分で上げるようになってから、各地の鯉のぼりを探しては観察する鯉のぼりソムリエになってきました笑

5月は光明寺では大きなお知らせはありませんでしたが、個人的には嬉しいことがちらほらと

写真は私たち夫婦の住んでいる場所の入り口付近ですが、なんと燕の巣が!

私が物心ついてからお寺に巣を作ってくれるのは初めてですので、感動です

燕の巣は幸運を呼び込むともいわれているので、結婚してから作ってくれないかなーと願っていたのが、子供のできた年に初めて作ってくれるようになるとは、何かの因果を感じます

我が子と同じく大きく育ってくれたらなーと思いながら、日々驚かさないように出入りしておりますが、ちょっとだけ驚かしている時はごめんなさいね、燕さん

この燕を筆頭に、私の周りではベビーブームが到来しておりまして、同級生や先輩、家内の後輩関係なんかも産まれたーという知らせが多数

嬉しい知らせですね

嬉しい知らせは周りも明るくすると思います

そんな5月の護摩は皆さん田植えで大忙しの時期でしたので、今月は4人の参加人数でした

一年を通してやっていると、こんなこともあります

他の方に紛れて、うちのおチビも参加です

当日来れない方が、お願い事の書いた護摩木をたくさん置いていかれているので、人数は少なくても仏様にお伝えするものは多いのが嬉しいところ

皆さん頼りにしてくれているのは、本当にありがたいですので、私たちも頑張って勤めさせてもらっています

護摩のお勤めの後で住職の話でしたが、今日はダンマパダ「法句経」という古いお経からの引用でした

どれぐらい古いかというとだいたい2500年前

そんな昔のものが役に立つのか?そう思っていた時期が私にもありました

ですが、読んでみるととっても役に立ち、考えさせられることばかり

人間って使う道具が便利になっても、中身は別物になったりしませんから、昔から人の本質は同じなんだな、と考えさせられるものです

「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。

上記の文は住職が引用して使った法句経の一部です

この話では不本意なことに私がよく引き合いに出されます笑

子供が生まれた時は可愛いですし、親の後を着いてまわりますが、そのうち成長するに従ってだんだんと親の言葉、師匠の言葉をきかなくなっていきます

そこで私の子供なんだから私の言う通りにしろ、どうして私の思う通りにならないんだ、と考えてしまうと苦しみの始まりで、自分自身さえわかっていても同じ失敗をして同じ間違いをするのに、この世の中に自分の思い通りになるものがあると考えてはいけない

全ては諸行無常、自然のままに流れていきます

お金や物、はたまた自分が建てた家でさえ、壊れてしまえば誰のものでもない

天からの恵のものを一時使わせてもらっている、という教えです

自分の身体でさえ、死んで土に還れば誰のものでもなくなります

そんな中で、あれが自分のもの、これが自分のものと考えるのはしんどくないですか?

借り物の身体だからこそ、大事に使って返さないといけませんし、次も身体を借りれるとは限らないので頑張って生きようと思うのだと思います

皆さんも、これを機に何が自分のもので、何が他人のものか、それが本当に合っているのか?少し考えてみてはいかがですか

久しぶりというのは、とても嬉しいものでした

皆さんこんにちは、副住職の隆照です

4月も終盤に差し掛かり、ずいぶんと暖かいどころか暑くなってきましたね

実はこの4月から、高野山でもさまざまな活動が再開されておりまして、その一環として、お坊さんとお話できる場所が復活しました

ありがたいことに私は早い段階で、仕事の依頼をいただきまして、一週間ほどいってきました

コロナのおかげで実に2年半ぶりの活動再開、感無量の思いでした

久しぶりに山の上に上がるので、近隣のお坊さんからは大量の買い物を頼まれていきました笑

2年半という時間はやはり長いもので、いろんなものが変わっていました

年の近いお坊さんが軒並み親になっていたり、ペーペーだった若い子たちがいつの間にか役職について物事を動かしていたりと、私も時間の流れを感じさせられました

写真は高野山の大師協会で、私が動いていた場所の一つです

高野山でのお坊さんの活動の事務的な処理をおこなう場所なので、さまざまなお坊さんが出入りしています

いろんな人に再会したのですが、中でも師匠に再会し結婚の報告ができたのは、個人的に一番嬉しいことでした

コロナで随分人の減った高野山ですが、それでもいろんな人が来ています

やはりこの場所は、いろんな事情を抱えたり、悩んだ人が来ることが「少しだけ」多いように感じます

皆さん話していると様々な内容の話を話されるので、それを聞いていると「果たして私でお力になれるだろうか?」と感じることもしばしば

お大師様の教えをお伝えして、お坊さんとしての立場からの見解をお話しして、どこまで皆様に届いているかはわかりませんがいくばくかの力添えができれば良いなと、いつも思っています

そんな高野山でのお仕事を終えた後は、光明寺で嬉しいことがあったのです

光明寺にもついに鯉のぼりが立つ時がきました

青竹を切ってきて、屋根より高く聳え立て!

と言うは簡単ですが、土台を作ったり、竹の運び出しだったりと結構大変でしたが、住職と二人、可愛い孫(私には子供)の為になんとか立てることができました

そんな作業をしていて思ったのが、自分のためには絶対やろうとは思いませんでしたが、子供、、、次の世代を担っていってくれる子たちの為なら身体も動くもんだということですか

子供が産まれたときによく聞いたのが、孫を見るときの人たちは、孫から繋がっていく未来を想像するので、理由もなくウキウキするし、可愛いし、期待するそうです

私たちは何が幸せと感じるのだろうかとよく考えていました

そういう関連の本や資料も結構読みましたが、それよりも親になってみて本当に実感するのは、自分のやっていることが未来に繋がっていってくれるという感覚が本当に嬉しく思います

これに関してはお金では買えないな、と感じます

お爺さんやひいお爺さん、その先祖から繋がってきたものが自分たち、そして子供、その下の孫たちに繋がっていく、その大きな世界の流れの中で、私たちは少しばかり生きているだけなんでしょうね

「阿字の子が阿字の海より立ち出でて、また立ち返る阿字の故郷」

真言密教で言われている言葉ですが、私たちの本質、魂の中側にあるものは、人も動物も植物も変わらないものを持っていて、皆んな同じところから産まれてきて、生を謳歌して、死んだら同じところに帰っていく、そう言われていたのが、最近初めてこんな感じなのかな?と実感しています

ずっとこれからも流れていく世界の時間の中で、光明寺という場所でおくらせてもらえる1日を感謝して過ごしています

皆さんも不安になったりしたとき、自分の家のご先祖さまはどういう流れで皆さんに繋がってきたのか、少しだけ考えてみてはいかがでしょうか?