自分の善行は誰のもの?

皆さんこんにちは、副住職の隆照です

奇麗な紅葉も、落葉が続けば終わりが見えて、少し物悲しい風景になりつつありますね

光明寺の今年の紅葉は、残念ながら紅一色というわけにはいきませんでした

夏の台風直撃のあおりを受けて、沿岸部から海水が飛んできてしまい、山の木々たちがダメージを受けてしまったために、なんとも中途半端な色づきになりました

まぁ、自然の摂理ですので、そんなこともありますよね

毎年全てが思い通りにはならないものです

諸行無常ですねぇ

21日には光明寺本堂での護摩が無事に勤修されました

この日は天気も良く、11月とは思えないぐらいの温暖な日で、秋の収穫を終えられて、お仕事の方がひと段落された皆様が久々の出席で、本堂が賑やかな雰囲気でした

天気が良かったので、朝には霧が立ち込め、護摩の時間まで残っています

ちょっと写真は撮れてないのですが、朝のお勤めの時間には、ここからの景色は白一色で霧が立ち込めています

最近、信貴山での修行時代に、師匠がよく言っていた言葉を思い出します

「先人先徳」(せんじんせんとく)とよく言われていました

自分の親や曾祖父、さらにそこから続いていく先祖の方々が、いろんな善い行いをして、徳を積み重ねてきたのが、今を生きている私たちに降り注いで良い影響を与えている。だから、その積み重ねた徳の貯金を使って私たちが成長し、使い切らないうちに今度は貯める側に回らなければいけない

と、こんなことをずっと言われていたのですが、当時は私自身あまりピンとこず、もっと別のことを言えばいいのに、と不遜にも考えていました

ところが最近、いろんなご家族の方を見ていて、この先人先徳というのが、まさにぴったりだなと思うようになってきました

・・・当時の私はずいぶんと修行不足でしたね

一家のお父さんが亡くなって、その人を慕って様々な人が集い、そこから新しい縁が結ばれていく

つい先日、ちょっと訪ねたお家がそんな状況だったのですが、まさにこの言葉通りだな、と感じていました

仕事ができて、面倒見がよく、誰からも好かれる人徳者だった、私はそんな風に聞いています

この個人主義の時代ですので、良い人になっていい行いをして徳を積んでも、自分には何の見返りもない!損だ!という意見を言う人もいるでしょう

ですが、良い行いは、仮に自分に還ってこなかったとしても、自分の伴侶や子供たちに回ってきます

このあいだ集まった人たちの関心は、亡くなった人の子供さんたちへ

元気に過ごしているのかとか、学校では上手くいっているのかとか、当たり前ですが、暖かい会話でした

類は友を呼ぶ、亡くなった良い人を慕って集まったのは、やっぱり皆良い人たちでした

集まった良い大人たちの暖かい影響を少しでも受けて、強く大きく育ってくれたらいいなと、少し会っただけですが、私も強くそう思います

私たちは、先人の徳のおかげで知らない間に育って、そして気づいた時には、今度徳を貯めてあげる側になっていく

このサイクルがずっと昔から続いていますし、それは変わらないのだと思います

ですので、身近な善行から始めてみてください

まずは笑顔で挨拶と、身の回り、普段使っている物、場所の掃除からですかね

それだけで十分、徳の貯金にはなっていますよ

自分の為ではなく、子供の為、伴侶の為、孫の為

徳の貯金をしているときのあなたの顔は、きっと優しい仏の顔になっているはず

土砂加持が無事に終わりました

皆さんこんにちは、副住職の隆照です

光明寺にとって4月4日はとっても大忙しの1日です

なんといっても一年に一度の土砂加持法要、、、といっても、馴染みのない方はわかんないと思います

土砂というのは、汚れを取り、綺麗に洗って清めた砂なのですが、その砂はとっても仏教のお勤めのありがたい力を蓄えやすいといわれています

そこにお勤めを行い、ありがたい功徳の力を蓄えることを土砂加持といいます

私なんかは、この土砂を地鎮祭の時に持って行って撒いたり、事故の方のお葬式のときは棺の中に入れてあげたりと、よく使っています

これは完全に私の主観、感想になるのですが、険しい顔をして亡くなられたかたなんかは、土砂かけてあげると、幾分和らいだ表情になってくれるようなきがしています

私のお坊さんとしての感想ですので、データなどは一切ないので悪しからず

当日は想像以上の方にお参りいただき、本当に嬉しいしだいです

当日は法要の開始は1時からでしたが、お寺を支えていただいている役員の皆様には、午前中の早い時間からでていただき、雑用を引き受けてくれて本当に感謝の気持ちしかございません

お勤めが終われば去年に続きまして、神戸の田中僧正の法話です

去年の話を聞かれた皆さんは覚えていらっしゃるでしょうが、本当に人の興味を引きながら、時間を忘れさせたような話をするのが上手で、また聞きたいというご意見を多数もらっていたので、無事に2回目です

今年も私は裏で動いていたので、お話を聞くことはできなかったのですが、今年は妹夫婦が聞いてくれたので、そこから話の内容をまた聞きできました

話ていただいたのは35分ほどでしたが、あっという間の時間だったそうで、もう終わった?という感覚になってしまったようです

配られた紙の資料はお寺に置いていますので、欲しい方はお渡しさせてもらいます

私生活では、自分が完全に満たされるということはありえませんし、どんなに周りが気を使ってくれても、どこかで思うところが出てきますが、そんな心のしこりを解消する方法というのが修行であるというお話です

修行は大きく別けて2種ありまして、一つは自利行というもので、これは自分を高みに上げるための修行です

今回お話の主に挙げられたのが「利他行」というもので、これは他人のためにする修行、他人のために何かしても自分には何も利することがないじゃないか、と思いですか?

例えば、私たちが周りの人に優しい施しを行うと、救われたなと思ってくれる受けた人は、困ってる人たちを見つけたときに、また自分にできる形で助けるかもしれません

それが何回も続けば、やがて自分が困ったときに誰かが助けてくれるのは、もしかしたら昔に自分が行った、誰かへの優しい施しの和かもしれません

そういう施しの修行で、無財の7施というものがありますよ

というお話を、本当にあっという間に話されたと聞いています

私たちお坊さんからしたら、無財の7施はいたって普通のお話

ですが、普通を飽きさせず、面白く、わかりやすくお話しするのは田中僧正のまさに得意とするところ

ほんとうに見習いたい先輩です

光明寺に関わってくれた人たちのおかげで、土砂加持法要が無事に終わりましたことを、これをもってご報告させてもらいます

久々に皆様の前で話をさせてもらっています。

みなさんこんにちは、副住職の隆照です。

光明寺では、抜けるような青空の元、彼岸のお勤めと護摩のお勤めを無事に同日終えることができました。

当日は気持ちのいい陽気で、抜ける風が心地よく、護摩の火がすぐそばにありながら、ほとんど暑いという思いを持つことはなく良いお勤めができました。

午前中に護摩の勤めが終わりましたら、午後の1時から地区の皆さん揃って一緒にお経を唱えます。

残念ながら、宣言中という事もあり、普段のように皆さん勢ぞろいしてということはできませんでしたが、嬉しいことに家内の後輩の子がちょこっと参加してくれました。

住職も言ってましたが、お子さんお孫さんが来てくれると、お寺側も嬉しいですし、お参りに来られている他の檀家さんも元気をもらっている様子です。

若い力は素晴らしい、、、年寄りみたいなことを言ってますねw

上の写真は私のお話で使った板書です。

コロナの前は高野山でお参りの皆さんにお話させてもらってましたが、それもパッタリと止み、本格的にお話をさせてもらうのは一年半ぶりぐらいでしょうか。

やはり、皆さんの前に立つというのは、よく知った人たちであっても緊張するものですが、話の内容を考える段階から緊張半分、ウキウキ半分といったところでしょうか。

話の大筋を考えながら、やはり私はお話が嫌いではないのだと実感しました。

、、、好き嫌いと上手い下手は関係しないのが辛いところw

今年は中秋の名月が21日でしたので、お堂の縁側にススキと兎を飾ってました

改めて夜、月見をしましたが楽しいものですね

あいにく天候の加減で月が見えたが最初だけでしたので、すぐに終わってしまいましたが、皆んなでわいわいというのは、家族だけでも楽しいものです

まだまだ残暑が厳しいと思いますが、皆さん身体に気をつけてお過ごし下さい

後編~吉田僧正~桃太郎~

みなさんこんにちは

24日の話、後半編です。

早いもので、吉田僧正に来ていただいて、お話しをしていただくのも今年で3年目です。

知らない人の為に、吉田僧正の簡単な紹介を。

実はこの方、元々プロの落語家さんでした、それを結婚された相手がお寺のお嬢さんだったという事で、婿入りでドナドナをされまして、お坊さんになられたわけです。

さすがはプロの落語家、最初の年はご自身のいきさつと、それで密教の教えを面白おかしく話していただいて、みんなにも大人気でした。

吉田僧正、落語家の名前を桂米裕と言います。

そして、実は落語家のお名前だけでなく、お坊さんとしては、本山高野山が認めた、本山布教師の資格も持っておられるのです。

ちなみにこの資格、私も目指しているのですが、まだ私は初心者マークが外れていません。

なかなか、大先輩の背中は遠い!

そして、そんな吉田僧正の今年のお話しは、なんと桃太郎でした。

非常に面白く、そしてわかりやすく語ってくれている内容は、聞いている聴衆がのめり込むようなものでした。

桃太郎というのは、皆さんよくご存知のメジャーな昔話ですが、それを研究されている方もたくさんいらっしゃるようで、いくつか説があるようですね。

おじいさんとおばあさん、語り口調では「ジジ」「ババ」ですが、それは「チチ」「ハハ」が濁ったものだというのが有力なそうで、父母、祖父母に孝行しなさいよ!という教えを言うには非常に良い具合なので、そのまま語り継がれているそうですね。

また、思わずなるほど!と思って頷いてしまったのは、川の上流から桃がドンブラコドンブラコと流れてくるというシーンの意味ですが、川の上流からというのは、おじいさんが種を撒くということをほのめかす表現の技法だそうで。

おじいさん、撒いていたのねw

桃を2つに割って、そこから男の子が飛び出したというものは、桃というのは、女性の足「ふと(もも)」の表現だそうですね。

だから、それを割って出てくる男の子はおばあさんが産んだことになると、、、

それは流石にジジ、ババでは出来ませんね。

このような、思わずなるほど!と思ってしまう内容が、吉田僧正のお話の中にはたくさん詰まっています。

そのお話がどんどん進んでいって、クライマックスに差し掛かると、吉田僧正はこう言います。

実は、桃太郎というお話は中国の儒教思想に大きく影響を受けて作られたお話で、仏教的なお話ではないのです。

では、どうすれば仏教的になるのでしょうか?

こう皆さんに問いかけられて、みんなが考えこむわけです。

さて、皆さんはどうしますか?

桃太郎の結末は、鬼を成敗して、その財宝を持って帰って、おじいさんとおばあさんと一緒に仲良く暮しました、めでたしめでたし。だったと思います。

そこに吉田僧正は仏教的な結末にするのは一つの付け足し、さらに、私達真言宗の教えである密教的にするのは2つの付け足しで事足りるとおっしゃいます。

まず、仏教的な話の結末にするのは簡単です。

桃太郎は鬼を成敗して、その財宝でおじいさんとおばあさん「そして、村のみんなに分け与えて」仲良く暮しました。

これが仏教的です。

自分一人、自分の家族だけ、ではなく、みんなで幸せになりましょう、というお釈迦さまの教えを考えると、なるほど!となりますね。

そして、密教的にするのは、さらにもう一つ

桃太郎は鬼を成敗して、持ち帰った財宝でおじいさんおばあさん、村のみんなと仲良く暮したうえに「敵対した鬼も改心させて、悪事を起こさせないで村で一緒に」幸せに暮しました、めでたしめでたし

これが密教的なお話の結末であると言われました。

みんなで幸せに、その究極は敵も幸せにしたら、敵じゃなくなりますよね?

全ての存在は、仏の優しい心を持っていると言われているので、不可能ではないはずです。

心に仏を宿す=仏の優しい心を宿す、これこそが、私達真言宗の目指すところ、即身成仏です。

死んで仏になるのではなく、生きたまま仏になる、仏を身に宿すことですよ。

と言われて、お話を締めくくりました。

思わず気がつけば、40分という時間があっという間に過ぎてて、非常に楽しい法話でした。

一応要点は書き出したつもりなのですが、本家本元の足元にもおよばません。

なお詳しい話が聞きたい方は、ぜひ吉田僧正に直接会っていただいて、お話を聞いていただくのをおすすめします。

このような、素晴らしい法話も今年で3回目になり、暑い中ではありましたが、無事に御施餓鬼の日を終えることができました。

今年は大変な状況の中でしたが、様々な方の尽力のおかげです。

深く感謝しております、ありがとうございます。

また光明寺をよろしくお願いします。

涼しくなってきたら、またお参りに来てくださいませ

千種の園 訪問 実は知らなかった除夜の鐘

本日2時より、光明寺の麓にある千種の園に行ってまいりました。

早いもので、夏過ぎに始めたこの訪問も4回目を数えました。

何を皆さんにお話ししたらいいかと考えているうちに、年の瀬になりました。

始めた当初は、利用者の皆さんが受け入れてくれるのかと不安に思うことが多々ありましたが、今となってはありがたいことに、皆さん毎回大勢の人が、私たちの訪問を待っていてくれるようで、本当にありがたい限りです。

今日は赤穂では、有名な義士祭が開催されており、利用者の皆さんに枕詞での挨拶に、この話題を使うと、懐かしそうに、また嬉しそうに聞いてくださいました。

去年から義士祭の仮装行列に主役として高橋英樹が呼ばれているようで、追いかけのファンもたくさん来ていらっしゃるそうです。

私は、見てみたいと思いつつ、なかなかご縁のない形になってしまって残念です。

今日は12月ということで、師走の成り立ちの一説をお話しさせてもらったのと、除夜の鐘をみんな知らない豆知識と一緒にお話ししました。

というのも、除夜の鐘というのは本来、お坊さんが行っていた仏名会という反省会がもとになっているのですが、この仏名会、できれば行いたくはないほどにしんどいのです。

その内容は、スクワット300回です。

嘘じゃないですよ?w

まぁ、正式には礼拝300回なのですが

自分の今年やってしまった罪咎を考えながら、いろんな仏様の名前をお呼びして、一人の仏様に対して一回の礼拝を行います。

礼拝の作法は床に右ひざ、左ひざ、右ひじ、左ひじ、そして額の順番につけていき、全部ついたら立ち上がります。

それが1回

これを108回、私たちの煩悩の数仏様がいてくれるので、その方々に1回づつ

これだと108回で終わると思うでしょう?

ですが、仏教では過去にも、未来にも仏様がいると考えています。

過去に犯してしまった罪に対してごめんなさい、そして、未来に犯すであろう罪を止めてくださいの意味でそれぞれ108回づつ、計324回行います。

文を書いているだけで恐ろしい( ;∀;)

これを衣で行うのですが、終わると年配から若いのまで汗だく、息も絶え絶えの苦行です。

そりゃ反省会だから仕方ないのですが、しかしやりたくないのは仕方ない。

犯した罪を反省するのはいいことだから、一般の皆さんになんとか行ってもらえる方法はないかと、考え出されたのが除夜の鐘です。

礼拝する代わりに、鐘をついて仏様に知らせることにしたのですね。

その話の後、皆さんに阿字観という瞑想を行っていただいて御詠歌を聞いてもらうという、普段とは少し違った形で行いました。

生憎、皆さんの写真が撮れなかったので、私が阿字観している姿で代用します。

こんなイメージで皆さんに深呼吸して、落ち着いてもらいながら御詠歌をお届けしたら、いつもより聞き入ってくれているのは新発見!

いろんなところで瞑想は使えるのだな、と発見しました。

心が落ち着けるので、集中して聞き入ることができるのでしょうかね。

ともあれ、無事に終わりましたが、毎回涙を流しながら、聞き入ってくれる皆さんを観ると、非常にありがたく思っております。

まだまだ走り始めた、この千種の園訪問ですが、これからも続けていきたく思います。