光明寺護摩祈願、しかし今月は思わぬ強敵が・・・

皆さんこんにちは、光明寺副住職のです。

今月は本来でしたら、梅雨のシーズンということで、雨の心配をしながらお寺の行事を行わなければいけないのですが、今年はどうしたのでしょうか、全く雨の気配がありません。

雨の少ない年でも、たくましく生きている子たちがいたので、護摩の日の朝に写真に収めておきました。

お寺の鎮守さん(土地の神様)の池に咲く水連の花です。

今年も元気よく、雨の少ない中ですが、奇麗な花を咲かせてくれていました。

そんな中で始まった護摩のお勤めですが、なんと今日は来てくれる人の数が10人以下

なにかあったのだろうか!

そんな心配をしたところで、檀家さんの御一人が教えてくれました。

「今日は幼稚園の御田植祭だからね」

なるほど!

合点が行きました

御田植祭とは、幼稚園の子供たちが、田んぼに自分たちの手で、お米の稲を植えていく行事のことです

お孫さんや、近所の子供たちの晴れ姿なので、皆さんカメラを持って田んぼに集まっています。

子供には勝たれへんのや・・・笑

でも、何よりです

みんなうれしそうな顔をしていまっしたので、それが一番です

6月はお大師様の誕生日

6月9日の第二日曜日に、今月も無事光明寺奥の院での護摩をお勤めすることができまっした。

今月はなんと、今年の受験に合格祈願していた子がお礼参りに来てくれたおかげで、一気に普段とは違う雰囲気になりました。

平均年齢が一気に10歳近く上がると、空気も変わるものですね。

当日は雨の心配もなく、また、暑くもなく、寒くもなく、歩いて登ってこられる皆様の苦労をねぎらうかのような心地よい風と共にお勤めが始まりました。

私自身は先月、先々月と、他の仕事が入ってしまい、どうしてもこのお勤めに来ることができなかったので、皆さんとお勤めするのも実に3か月ぶりです。

これだけ空くと、新鮮な気持ちですね。

今月から、衣も夏服に変わったので、心機一転の手助けになってくれていたかもしれません。

そんなお勤めの後に、なんと信者さんから、皆様の分のお弁当の差し入れがありました。

私は不覚にも、お弁当の写真を撮り忘れてしまったのですが、売っているものと遜色ない味と、見た目に皆様大喜びしておりました。

そんな中、お大師様の生誕月ということで、是非お大師様のお話をしてほしいというリクエストをいただきましたので、私がお大師様の辿られた道筋と、そして教えの即身成仏について、非常にざっくりとですが、話をさせてもらいました。

ちなみに、最初にお話しをして、とお願いされたのは住職でしたが、そこから私に振りましたので、、、逃げたな、住職!笑

私としては皆様にお話しする場がもらえてありがたいので、全く問題ありまさえん。

即身成仏、学校の教科書にも出てくる言葉ですが、その内容は?と聞かれると、なかなかわかる方は少ないと思います。

詳しく聞いてみると当たり前のことなのですが、なかなか難しい。

その内容とは、生きてるままで仏様になりましょう、ということです。

私たちみんなが、心の中にいろんな自分を持っています。

ズルい自分、怒りっぽい自分、悪い方向から、当然いい自分もいます。

仏教では、そんな自分の中にあるいい自分、親切な心が仏性と言って、仏様の心だと言っています。

そんな仏様の良い心を大きく育ててあげることこそが、即身成仏だと言われているわけです。

悪いことをするな、人のために良いことをしろ

小さな時から私たちが、お父さんお母さんに言われてきた言葉の中にこそ、真理が詰まっていたのだと思います。

ホント難しい。

でも、それをしていくのが修行だと思います。

あきらめず、進んでいく。

自分の仏性と共に。

まだまだ道半ば。

21日は護摩の日

この日は、前日まで降っていた雨も朝方には止んでくれ、抜けるような青空の下で護摩の祈願を行うことができました。

当日は平日ということもあり、お参りの方は少ないのかなと予想したのですが、期待を大いに裏切る人数がお参りしてくださありありがたい限りでした。

この日は久々に姫路のお寺である真楽寺のご住職も来てくださり、久しぶりのお坊さん3人態勢での護摩のお勤めとなりました。

先月、先々月は真楽寺さんが、御自坊のほうが忙しく、なかなか都合がつかなかったので、3か月ぶりのフルメンバーです。

皆さん久しぶりの真楽寺さんとの再会を喜んでおられました。

そんな中で、令和になって最初の護摩のお勤めで、住職が今上陛下の国家安穏を祈願していましたのが印象に残りました。

私たちお坊さんは常に、他人に感謝することの大切さというものを、仏教のなかで学び、それを他人にお話ししているのですが、その感謝を向ける一番大きな相手はというと、国と世界に向けろとお釈迦さまも言われています。

自分一人で生まれてきた人間は存在せず、さらに、自分をここまで守って育ててくれた親がいて、周りのコミュニティがあって、さらにその上に、そのコミュニティが所属している国がある。

それに感謝するというのは、当たり前のようですごく難しいものだと思います。

当たり前というものほど難しいというのは、最近特によく思うことです。

いつも皆さんが当たり前と思っていることを、改めて考えてみるいい機会なのではないのかと、思った令和最初でした。

瞑想(阿字観)指導者講習受けてきました

長らく更新ができてなかったのですが、5月はとてつもなく忙しくなっていました。

このたび、私は上にも書いてますが、高野山で瞑想の指導者講習を受講してきました。

それが前期後期と、それぞれ分かれているのですが、だいたい1週間ほど缶詰状態での講習となりますので、そもそもお寺にいなかったのが多かったです。

さて、普段は自分でやっている瞑想ですが、それを人にお教えするとなると、また勝手が違うものです。

そのためのノウハウを学びに行ったのですが、なるほどなと思わせる点がたくさんありました。

普段、私たちお坊さんは修行のなかで瞑想の形と言いましょうか、仏教についての知識、認識が低いうちから、なんかやっているな、ぐらいのつもりで毎日おこなっているので、か気が付いたら、疑問に思うことも少なく、違和感を覚えることもなく、瞑想状態に入れているとは思います。

もちろん、深い浅いは個人でいろいろあるでしょうが、おそらくみんなが表現する言葉は違えど、何となくそれっぽいものは持っていると思います。

しかし、それをいざ言葉で、それも一般の人にお伝えすることの難しいこと、難しいこと。

疑問点も違えば、感覚も違う。

人にものを伝えるってこんなに難しいのだと実感した一週間でした。

そんな時間を過ごしているうちに新緑の美しい季節になりました。

草抜きが大変ですが、それすらも気持ちいい気分で行えますかね

GW 京都団体ツアー 強行軍の巻

4月29日、平成の世の中が終わろうとしているときに、光明寺の檀家さん及び信者さんを集めて行っている、18本山巡りツアーが行われ、多くの方にご参加いただけました。

今回の企画では、18ある真言宗本山のうちに、3つ。

大覚寺、仁和寺、泉涌寺をまわろうというもので、実はこのツアーは秋口に計画の予定だったのですが、紅葉のシーズンだと、京都の中は、車での移動は不可能に近くなるとのことで、GWになりました。

当日は心配された雨もなく、無事にお参りを終えることができたのは、単に、今回参加してくださった方々の日ごろの行いの良さに、お天道様が融通を聞かせてくれたのだと思います。

当日朝は7時半に有年の公民館を出発して、後に赤穂駅で全員を吸収したのち、いざ京都へ。

思ったほど高速は渋滞もなく、これも新名神が開通した影響なのでしょうか、ほぼ予定時間通りに大覚寺に到着することができました。

実は、この旅の初めのほうは私がうっかりしていまして、皆さんの集合写真を収めるのをすっかり忘れていました。

ですので、大覚寺は非常に中途半端な写真しか写せていません。

写真は撮っていませんでしたが、他の方と行く京都のお寺。

普段行く高野山のお寺とは、また雰囲気も違い、そして一番大きな違いは、自分自身が迎える側で仕事をしなくていいというのは、やはり非常に新鮮な気持ちでお参りすることができました。

大覚寺のあとは、皆さん楽しみにされていたお昼ご飯です。

金閣寺の近くの錦閣(きんかく)というお店でいただきました。

ごはんは京都のお食事なので、小ぶりなものが出るかなという予想は見事に覆されまして、非常に板場さんのセンスが光ってはいたのですが、量のほうも申し分なく、一番若い私ですら満腹になっていたので、皆さん大変満足されていました。

お昼が終われば、仁和寺と泉涌寺です。

特に泉涌寺では、もう時間も夕方にさしかかり、お寺としては片づけをされる時間になっていたのですが、お堂の説明をしてくれたおじさんが非常に親切に、わかりやすく面白いお話しをしてくれたので、ありがたかったです。

ここに来るまでに、皆さん疲れて、バスの中では口から魂の抜けている方もちらほらいらして、バスを降りた時も元気がなかったのですが、おじさんのおかげでみんなが、再び息を吹き返しまして、最後のお参りを完遂することができました。

天気にも助けられ、おじさんのお話しにも助けられ、他にもいろんなものに助けられた、この日のお参りを無事に終えられたことにホッとした気持ちを覚えつつ、やはりいいご縁をいただけたな、と思いました。

次回のお参りは、秋口に奈良に行く予定です。

私の前にいたお寺も回ることになると思うので、次回もまた皆さんとご一緒したいものですね。

光明寺護摩の行 こんなに詰めこんだはずでは・・・

21日に護摩のお勤めが光明寺本堂で行われました。

この日は日曜ということもあり、また天候にも恵まれましたので、非常にたくさんの方が参列してくださり、もうお勤め開始する前から本堂が満員になっていました。

なかでも嬉しかったのは、お孫さんやお子さんをたくさん連れてきてくれたことですね。

連れてきてくれたおばあちゃんはもちろんのこと、お孫さんたちのお母さんも知っているのだから、私も歳をとっていくのだなーと思わず考えてしまったのは内緒です。

護摩のお勤めが始まると、子供たちは慣れた子も慣れてない子たちも、みんなで大きな数珠を回します。

そのうちに護摩の火が上がりだすと、不思議とみんなの目線が炉の中の火へと集中していました。

護摩はお供え物を燃やすことによって、仏様へ届け、そしてそこに、自身のお願い事を書いた護摩木を添えることで、仏様に私たちの祈りを聞いていただく作法なのです。

ですが、毎月護摩のお勤めをしていると、そんな理屈を抜きにして護摩の火というのは、人を引き付け、そして各々考えさせられる、不思議な魅力というものがあるものだということを感じます。

先日読んだ村上和雄教授の書物では(この人は遺伝子研究でノーベル賞受賞者です)、祈りとは私たちの遺伝子を活性化してくれるものではないか?という仮説を展開されていました。

確かに、私たちはなにかあると、ほぼ教えられていない子供でも祈るものですよね。

そんな不思議な力というものが凝縮されたものが、この護摩の火というものではないかと、最近思います。

写真でピースをしている不届き物は妹です。

みんなまじめにお勤めしてるのになんということを・・・w

無事に護摩のお勤めが終わり、普段ならばこのままお茶を飲んでみんなで解散になるところですが、今日は少し違います。

なんと光明寺に永代供養墓ができたので、その開眼法要をすることに。

とはいえ、お勤めで疲れた子はひとまずお休みです。

( ˘ω˘)スヤァ

このお墓は、最近檀家さんの中でも跡取りがいないという声が、真剣に増えてきたので、無縁仏になってしまうのならば、お寺が面倒を見れるようにします、ということで建立しました。

そして、納骨された方だけじゃなく、お寺にお参りに来てもらった方がみんなが、手を合わしていってくださるのが理想です。

そうすれば、亡くなった人も寂しくなくてすむ。

そのために場所も本堂の直ぐ前、必ず人が通るところに設置しています。

やはり、納骨されたはいいけど、独りぼっちは寂しいですから。

そんな一連の行事が無事に終わった後は、もう昼過ぎになっていました。

こんないい天気の中で、たくさんの人に見守られてお勤めができたことを感謝します。

黒澤山護摩の日 副住職の逃避行

第二日曜日である14日に光明寺奥の院で護摩のお勤めが定例通り行われました。

天気予報ではあいにくの雨でしたが、なんとか空も耐えてくれたみたいで、歩いて移動するときには、比較的小降りのタイミングであったとのこと。

仏様のおかげがあったのでしょう、非常にありがたいことでした。

この日、副住職である私は、他のお仕事が入ってしまって護摩には行けなかったので、現場の写真が撮れなかったのが残念。

ですので、普段の晴れの日の写真を少しあげておきます。

山の頂上に、このお堂や修行の像があるのですが、天気のいい日に上がった時のなんと澄んだ空気が迎えてくれることでしょう。

祈りの場所としては、これ以上ないほどの場所であると思います。

祈りといえば、先日友人より教えてもらったのですが、大学の時の恩師が新しい研究に従事しているとのことでした。

ノーベル賞を獲得した村上和雄さんと一緒に、お坊さんの祈りは科学的に見たときにどうなっているのか?というものを調べているらしいのです。

個人的にっは非常に気になるところです。

既に、普段から祈りの場にいる人は免疫系の遺伝子が活性化しているのかもしれないという仮説が出てきているみたいで、今後の成果に大いに期待したいです。

そして、この村上教授が普段どんなことを言っているのか?も気になり、著書を何冊か購入して読んでみたのですが、非常に興味深いことを書かれています。

科学でいろんなことがわかればわかるほど、わからないことが増えてくる中で、遺伝子を調べていると、何か偶然だけではかたずけられない、偉大な力を感じる。とのことでした。

村上教授はそれを「サムシンググレート」と呼んでいましたが、語呂が良すぎて頭から離れませんw

真言宗でいえば、すべてのものの心理をつかさどるのは大日如来ですが、いろんなお姿に変化されるので、私たちを救いに来られるならばサンタクロースだろうと、神様だろうと大日如来の変化した姿だと思っています。

そんな仏教の教えが、もしかしたら一部だけでも証明される日が来るのかもしれないということで、わくわくした日を過ごしております。

土砂加持のお勤め、無事満了

光明寺で1年のうち一番大きなお勤めが無事に終わりました。

皆様のお力添えあってのことでございますので、ここで改めて感謝を述べさせていただきます。

本当にありがとうございました。

当日は朝から、寒空ではありましたが、非常に気持ちのいい晴れの天気でした。

役員の方々は9時より来ていただきまして、いろいろ準備をされて望んだわけですが、去年までの大きな違いは、長年光明寺の総代を務められた方が、先月末に天寿を全うされ、大きな柱が抜けた状態でのスタートでしたが、新しく役員に入っていただいた方の努力も合わさり、皆様素晴らしい動きを見せておられました。

できることなら私自身も受付に座り、皆さんと一緒に檀家の方々をお迎えしたかったんですが、寺方が来るとそういうわけにもいきません。

後ろ髪惹かれる思いで受付を離れ(私お坊さんなので髪の毛ないのですが)寺方の茶坊主に邁進です。

そんなこんなをしていましたら、あっという間に11時のお勤めの時間が迫って参りました。

急いで着替えを行い、お勤めを告げる鐘、半鐘を鳴らすと、檀信徒の皆様も心得たもので、ざわついておりましたあたりが一転して、静粛な雰囲気に包まれます。

そして入ってくる寺方の行列。

お勤めが始まりました。

普段皆様が目にされるお寺のお勤めと言えば、お葬式か法事でありましょうか。

ちょっとマニアックな方なら護摩のお勤めに行かれたり、大般若のお勤めもあるかもしれません。

しかし、今日光明寺で行われたお勤めは、中曲行道 (ちゅうきょくぎょうどう)と言いまして、真ん中のお導師様の周りをお坊さんが、お経をお唱えしながらグルグル回る。

また、普段はゆっくりと唱えるお経も、勢いよく、叩きつけるような感じでお唱えする非常に珍しいものになっております。

写真では、右側の写真がお経を唱えながら回っているシーンになります。

このお勤めでは、多くの方がお参りしていただき、皆様で一緒に亡くなられた方の供養を行います。

途中で申し込まれた戒名を読み上げる場面では、皆様にお焼香していただくのですが、そこでご自身の関係のご先祖様だけでなく、他の来てくれている方みんなのご先祖様に手を合わしていただいております。

なぜかというと、仏教では因果をお釈迦様が説いておられますが、人の為を思って行った優しい祈りというのは、必ず自分に帰ってくるからです。

それが因果応報。

逆に、自分の為のみ、あるいは、自分の親族のためのみという考え方で生きていると、木蓮尊者のお母さんのように地獄に落ちてしまいます。

この御話はいつも、お盆にしておりますので、興味のある方は是非。

もちろん、他人に力を分けすぎて、自分の幸せがおろそかになるのは本末転倒でしょう。

しかし、少しだけ自分のことをして、余ったお力で他人のために手を合わせてあげるというのは、私たち日本人が昔から持ってきたものであり、さらにはこのすごい効果というのは、科学でも(正確には利他行動による脳への影響ですが)証明されてきています。

そんなすごいことを、当たり前のようにされている檀家の皆さんを見て、改めてすごい方たちだなと、思いました。

午前のお勤めが終われば、長年総代を務めていただいた方への感謝状の授与から、お昼ごはんです。

さらには、光明寺のアイドルも来てくれたので、周りのお年寄りがメロメロでしたw

午後からもお勤めがあり、それが終われば本山布教師の方のご法話です。

中嶋僧正、今年が初めての遠征での法話とのことでした。

始まりはお大師様の御紹介や説明から入られ、そこから真言宗の教えというものをわかりやすくお話ししていただき、米国大統領の逸話が出てきたときには、大いに驚きましたw

最初は、お話しのインパクトが弱いかなと思ったのですが、気が付いたら、いつの間にやら、聴衆全員が引き込まれており、本当に奇麗なご法話でした。

ありがとうございます。

そして、最後に忘れてはいけない、本日の最大の功労者の役員様方。

バリバリ働いていただいてるシーンを撮りたかったのですが、その時間帯は私写真のほうまで気が回らなかったので、ちょっと一息ついているシーンで申し訳ありません。

この土砂加持のお勤めは、小さなトラブルはたくさんありましたが、それでも皆様のおかげで無事に行えたことを重ねてお礼申し上げます。

ありがとうございました。

皆さんの一日に良いご縁がありますように     合掌

お磨きの日、訛って鬼ガキの日

本日光明寺では、1年に一度の檀信徒の皆様そろってのお寺のお掃除がありました。

男手も女手も集まっていただいて、男衆は外の窓を拭いていただいてからの、境内の掃除です。

女衆は室内の掃除と仏具のお磨きです。

というのも、来る4月4日に、光明寺で一番大きなお勤めである土砂加持のお勤めがあり、そこで年内に亡くなられた方や、今までのお家のご先祖様を供養するのでが、それに向けての準備をみんなで行っているのです。

本日の天気は生憎の雨模様だったので、外仕事はできないかなと思っていたもので、幾分濡れることのない外側の窓ふきだけお願いしたら、あとは後日、住職と私でと思っていたのですが、普段の行いがよかったのか、窓を拭き終わったぐらいにちょうど雨が上がって、そのまま皆さん外掃除に行ってくれたのです。

(ホントにこき使うような形になってしまい、申し訳ない気持ちと同時に、嫌な顔せず動いていただいた方々には感謝しか浮かびません)

ところで、仏具を磨くので「お磨きの日」と呼んでいるのですが、なぜか近隣の方々はそれが訛って「鬼ガキの日」と皆さん言っておられるのです。

方言って不思議。

今日のように、皆さんのお力を貸していただいてお寺が動くのを見るたびに、お寺って住職だけではとてもできないなと思う次第です。

やはり、檀家の方々あってのお寺であり、私たち寺族です。

こんな素敵な檀家の方々に対して、何かわたしのできる形で貢献したいなと思う今日です。

掃除が終わったので、みんなで仏様に般若心経を、お唱えして終わりです。

どうか、このままの調子で4月4日も見守ってくださいませ。

彼岸の護摩 人が一杯 多生の縁

本日午前10時より、光明寺本堂で彼岸の護摩のお勤めが行われました。

お彼岸ということで、牡丹餅を朝から作って、皆様を待っていたのですが、時間が近づくにつれて、一人増え、二人増え、気が付いたら用意していた牡丹餅の数を超えるお参りの方が来てくださり、急遽増量するという嬉しいハプニングから始まった護摩のお勤めでした。

春分の日の休日ということもあり、普段は来れないみんなのアイドルの子供たちが来てくれたのもあり、いつも以上に華やかな場になりました。

護摩が終わって住職が皆様に法話していたのですが、簡潔にまとめると

1、業とは行動のことをさします。それが因、すなわち原因となります。

2、仏教では因果があります。すべて原因があって結果があるのです。

3、ですので、良い行動をして(利他の行など)良い結果をもたらしましょう。

とのことでした。

私、副住職自身も、この因果応報という教えは素晴らしいものだと思います。

付け加えるならば、私たちが壁に当たったとき、解決策が見えてこずに焦ったり、イライラしているときというのは皆さんあると思います。

そんなときは、脳科学者の方が言うには、私たちの脳は軽度のパニック状態になっているとのこと。

そんな状態になれば人間の思考というのは、どんどん狭く細くなって、袋小路に迷い込んでしまうそうです。

そうなると、どうやっても解決策が出てこないですし、違うものの見方もできません。

そんなときにいいのが、善行(利他の行)をすることです。

というのも、私たちの脳というのは利他の行(他人のために何かしてあげること)で、強い喜びを覚えるように進化してきているとのこと。

そのことについて詳細をここでは長くなるので書きませんが、いずれ記載されている書斎など紹介したいと思っています。

そして、その喜びを覚えた脳というのは、今までの問題によるストレスとパニックから、一度開放されている状態になるので、改めて物事に対して新しく考えることができるということです。

問題に当たって余裕のない人間が、真に必要なのが、他人に何かしてあげれる余裕とは、、、まるで禅問答みたいです。

しかし、仏教でこれだけ利他の行が強く説かれているのも、本当に私たちに必要なことだからなんでしょうね。

情けは人の為ならず、のことわざが的を得過ぎていて恐ろしいですw

まとめ、自分の為にこそ善行(善業)を!