秋の護摩は静かな賑わい

みなさんこんにちは

秋もずいぶん深まってきて、最近は朝晩が冷え込んできているなという印象です。

今年はコロナの関係で、秋のお祭りが軒並み中止になってしまい、ずいぶんと寂しい印象です。

個人的にお手伝いに行っている姫路の白浜のお寺も、例年ならば祭りの準備、寄り合い、当日と、9月ぐらいから活気づく男衆も、今年は鳴りを潜め、みんな一様に寂しいと言っています。

秋のお祭りは、そのほとんどが収穫祭で、農作物の恵みに感謝すると同時に、みんなが今まで頑張ったのをねぎらう宴会でもあります。

周囲の田んぼが軒並み収穫して、皆さんが慌ただしそうに動き回っているのを観ると、嬉しいような、少し寂しいような気持になります。

本当に、来年はできるといいですね。

お坊さんとしてではなく、一市民としてそう思います。

さて、秋といえば、お寺としては彼岸が終わり、何かしらのイベントを用意しているお寺さんもありますが、基本的にはのんびりした期間です。

そんな中で行われた光明寺の21日の護摩のお勤めは、寒空の朝でしたが、非常に良い天気の一日になりました。

収穫の時期で、さらには平日ということもあり、あまりお参りの方は来られないのかと思っていましたが、たくさんの方にお参りしていただき、用意したお接待の菓子パンが足りるか?と嬉しい心配をするほど。

みなさんのお参りに感謝いたします。

写真に写っているのは、いつもお手伝いしてくださる真楽寺さん。

光明寺の住職と間違えないでくださいねw

いつもしてくださる法話は、私も思わずなるほど!と思うものばかりです。

今日は食べ残しから、余裕の話でした。

なんのことかわかりますか?

真楽寺さん、昔はたくさん食べられていたそうですが、年齢と共にだんだん食べる量が減ってきたとのこと。

しかし、奥さんは昔の量のままご飯を作るので、それが当然ながら食べ残しになってしまいます。

奥さんは、もったいないから食べきろうとするのですが、そんなことを続けていたらお腹周りと体重計がひどいことにw

それを見て、真楽寺さんが言うのは、次の食事の時に食べるから残しておいてくれ。

奥さんは、古くなる前に食べきりなさいと更に言う。

なんとも面白い夫婦漫才のようなお話しなのですが、次があると思える生活をしているから心の余裕が生まれると言われました。

なんでもぴったりはしんどいと。

確かにそうですね。

それには私も賛成です。

適当ないい加減さは必要だと思います。

先日もお寺に来られた人の話を聞いていて、お話ししたのが「あきらめる」ということについてでした。

皆さん「あきらめる」と聞けばどういう印象を持たれますか?

もう無理だ、と投げだしてしまう印象でしょうか?

実は、仏教において「あきらめる」とは、物事を明らかして、そしてありのままを受け入れるという意味です。

自然の音や、人の呼吸音、自分の鼓動、他人の息遣い。

いろんなものがある中で、音をなくすのは不可能ですよね。

それを、どうにかしようとすると、成果のないわりに、とても疲れますよね。

どうにかしようとするのではなく、ありのままを受け入れてあげる。

それに必要なのは、心の余裕であり、物事を決めつけず、受け入れていく仏教の姿勢なのかと思います。

みなさんの生活にも、余裕が持てますことを祈っております

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