後編~吉田僧正~桃太郎~

みなさんこんにちは

24日の話、後半編です。

早いもので、吉田僧正に来ていただいて、お話しをしていただくのも今年で3年目です。

知らない人の為に、吉田僧正の簡単な紹介を。

実はこの方、元々プロの落語家さんでした、それを結婚された相手がお寺のお嬢さんだったという事で、婿入りでドナドナをされまして、お坊さんになられたわけです。

さすがはプロの落語家、最初の年はご自身のいきさつと、それで密教の教えを面白おかしく話していただいて、みんなにも大人気でした。

吉田僧正、落語家の名前を桂米裕と言います。

そして、実は落語家のお名前だけでなく、お坊さんとしては、本山高野山が認めた、本山布教師の資格も持っておられるのです。

ちなみにこの資格、私も目指しているのですが、まだ私は初心者マークが外れていません。

なかなか、大先輩の背中は遠い!

そして、そんな吉田僧正の今年のお話しは、なんと桃太郎でした。

非常に面白く、そしてわかりやすく語ってくれている内容は、聞いている聴衆がのめり込むようなものでした。

桃太郎というのは、皆さんよくご存知のメジャーな昔話ですが、それを研究されている方もたくさんいらっしゃるようで、いくつか説があるようですね。

おじいさんとおばあさん、語り口調では「ジジ」「ババ」ですが、それは「チチ」「ハハ」が濁ったものだというのが有力なそうで、父母、祖父母に孝行しなさいよ!という教えを言うには非常に良い具合なので、そのまま語り継がれているそうですね。

また、思わずなるほど!と思って頷いてしまったのは、川の上流から桃がドンブラコドンブラコと流れてくるというシーンの意味ですが、川の上流からというのは、おじいさんが種を撒くということをほのめかす表現の技法だそうで。

おじいさん、撒いていたのねw

桃を2つに割って、そこから男の子が飛び出したというものは、桃というのは、女性の足「ふと(もも)」の表現だそうですね。

だから、それを割って出てくる男の子はおばあさんが産んだことになると、、、

それは流石にジジ、ババでは出来ませんね。

このような、思わずなるほど!と思ってしまう内容が、吉田僧正のお話の中にはたくさん詰まっています。

そのお話がどんどん進んでいって、クライマックスに差し掛かると、吉田僧正はこう言います。

実は、桃太郎というお話は中国の儒教思想に大きく影響を受けて作られたお話で、仏教的なお話ではないのです。

では、どうすれば仏教的になるのでしょうか?

こう皆さんに問いかけられて、みんなが考えこむわけです。

さて、皆さんはどうしますか?

桃太郎の結末は、鬼を成敗して、その財宝を持って帰って、おじいさんとおばあさんと一緒に仲良く暮しました、めでたしめでたし。だったと思います。

そこに吉田僧正は仏教的な結末にするのは一つの付け足し、さらに、私達真言宗の教えである密教的にするのは2つの付け足しで事足りるとおっしゃいます。

まず、仏教的な話の結末にするのは簡単です。

桃太郎は鬼を成敗して、その財宝でおじいさんとおばあさん「そして、村のみんなに分け与えて」仲良く暮しました。

これが仏教的です。

自分一人、自分の家族だけ、ではなく、みんなで幸せになりましょう、というお釈迦さまの教えを考えると、なるほど!となりますね。

そして、密教的にするのは、さらにもう一つ

桃太郎は鬼を成敗して、持ち帰った財宝でおじいさんおばあさん、村のみんなと仲良く暮したうえに「敵対した鬼も改心させて、悪事を起こさせないで村で一緒に」幸せに暮しました、めでたしめでたし

これが密教的なお話の結末であると言われました。

みんなで幸せに、その究極は敵も幸せにしたら、敵じゃなくなりますよね?

全ての存在は、仏の優しい心を持っていると言われているので、不可能ではないはずです。

心に仏を宿す=仏の優しい心を宿す、これこそが、私達真言宗の目指すところ、即身成仏です。

死んで仏になるのではなく、生きたまま仏になる、仏を身に宿すことですよ。

と言われて、お話を締めくくりました。

思わず気がつけば、40分という時間があっという間に過ぎてて、非常に楽しい法話でした。

一応要点は書き出したつもりなのですが、本家本元の足元にもおよばません。

なお詳しい話が聞きたい方は、ぜひ吉田僧正に直接会っていただいて、お話を聞いていただくのをおすすめします。

このような、素晴らしい法話も今年で3回目になり、暑い中ではありましたが、無事に御施餓鬼の日を終えることができました。

今年は大変な状況の中でしたが、様々な方の尽力のおかげです。

深く感謝しております、ありがとうございます。

また光明寺をよろしくお願いします。

涼しくなってきたら、またお参りに来てくださいませ

今年も盆の暮、夏の終わりの24日

みなさんこんにちは。

更新の間隔が短く投稿です。

今年も24日の施餓鬼のお勤めが光明寺で無事に行われ、コロナ対策で館内全開放の換気のもと、行われました。

仕方ないとはいえ、やはりこの時期の窓開けは暑かったです。

終われば着物から汗が滴るレベル。

うーん、人間の身体ってすごい!こんなに水分を貯めてるんだと、謎の感動を覚えるこの頃です。

さぁ、そんなことはさて置いて、本題行きましょう。

今日の文章は長くなりましたので、ひとまずこのページでは施餓鬼のお勤めの報告として前編とさせていただきます。

後編は吉田僧正のお話しをメインに後日アップします。

この24日の施餓鬼というものは、お盆で帰ってきたご先祖様の供養の流れから続く一連の行事です。ここまでやって、お寺としては夏が終わる!という感覚です。

と、言いますのも、実はお盆というのは、自分の家の先祖の墓参り「だけ」のためではないのです。

写真にのせているお経の本、なまえは「うらぼんぎょう」と読みます。

これにはお盆の始まりとなった木蓮さんというお坊さんの話が書かれていますが、詳細はご自身で見るか、お寺に来て本を見てみてください、ここではざっくりと。

木蓮さんのお母さんが亡くなったときに、生前の罪で地獄に落ちてしまうのをどうやって助けたらいいか?というお話しなのですが、木蓮さんは非常に優秀なお坊さんでしたが、一人だけの力では、どうやってもお母さんを助けることができませんでした。

それぐらいお母さんがいた地獄の世界というのは、厳しい場所に堕ちていたのです。

そこで、木蓮さんはどうやったかというと「ワンフォーオール、オールフォーワン」です。

意味が分かりません?

そうですよね

私もこれだけじゃわかりませんw

木蓮さんは、一人の力だと足りないと言われたので、国中の人たちの力に頼ることにしました。

お坊さんだけじゃありません。

老若男女、全ての人にちょっとだけ力を貸してくださいとお願いします。

そして、全員に「木蓮さんのお母さんだけ助けてください」なんて言っても、力を貸してくれるはずはありませんから、「救われない人の霊、人以外の霊、みんなを助けるために力を貸してください」とお願いしました。

方法は、ご飯とお水をお供えして祈りましょう。

これだけです。

しかし、他人の為にお祈りするというのは、実はとてもすごい功徳の力が溢れることです。

最近は心理学なんかでも、人は他人の為に行動するときの方が発揮する力が大きいなんて発見されたりもしてますので、納得のことです。

そんな一人一人の小さなお祈り。

他人の為に祈るということが、大きな力を生み出して、木蓮さんのお母さんは、他の地獄に落ちていた人たちとも一緒に救われることができました。

これが、お盆の始まりです。

私たちには関係ない?

地元にそんなお勤めがない?

ちょっと待ってください。

私たちの生活に馴染んでいますよ?

お寺の施餓鬼のお勤め、地域の地蔵盆、精霊流し、これらは元は全部同じです。

お墓参りで、お仏壇で、先祖に供えた食べ物の残りを、救われない霊たちに食べてくださいね、と流すのが精霊流しです。

私たちは、生活の中に知らず知らずのうちに、行っていることです。

ですので、お寺としても、ここまで行ってお盆が終わった!という認識です。

でも、今年は本当に暑かった!w

いつも活躍してくれる役員様です。

ホントありがとうございます。

持って帰っていただいたお接待の中身です。

おはぎとお菓子はお寺からですが、ちゃんぽんは檀家さんからの寄付と、ここにもう一つ、檀家さんのおばあちゃんが畑で育てた大きななすびが追加されました。

ホント嬉しい限りです。

光明寺のアイドル三人組です。

みんな大きくなって可愛さにますます磨きがかかってきたかな。

お勤めがすべて終われば、夏の間皆さんにお参りしていただいた塔婆の台も解体です。

また一年後まで倉庫で眠ってもらうことに。

そして、お塔婆はお性根抜きを行い、雨の日を待ってお焚き上げです。

~後半  吉田僧正(桂米裕)のお話しへ続く~   近日中にアップ

お盆が終わり、晩夏の候

お盆が終わりまして、暦の上では夏の暮なのですが、まだまだ暮れる気配のない暑さが猛威を振るっています。

みなさんこの暑い夏をいかがお過ごしでしたか?

今年のお盆参りは天気には恵まれましたが、むしろ、恵まれ過ぎたぐらいで、軽い熱中症にみまわれながら、なんとか無事に終わることができました。

今年は、お盆に皆さんにお配りするリーフレットの原稿を頼まれまして、不慣れな中何とか書き上げたものが兵庫県中の真言寺院に配られているかと思うと、なんとも不思議な感慨を抱きます。

私などが書いたものが、皆さんが見ていただくに堪えうるだろうか?という気持ちはもちろんありましたが、思ったよりも好評な意見を多数いただけていることに、安心を覚えるとともに、おそらくみなさんが心の中に持ちつつも、言わないでおいてくれているであろう批判めいた意見に思いを馳せてしまい、ありがたく感じるとともに思い上がらず、精進を重ねていこうと思いました。

さて、お盆の話はさておき、本日も光明寺では、暑い中でありますが、月例の護摩のお勤めを行うことができました。

天気予報では37度という予報でしたので、暑すぎるがゆえに皆さん来られないかと思っていましたが、始まってみると、10人もの参拝の方が来ていただき、本当に大変な環境のなかですが、来ていただけるというのはありがたいの一言に尽きます。

本堂では、扉を全開にしてお勤めですが、それでも暑かったので終わったころには私も皆さんも汗が滴っていました。

そんななかで、本日のお接待として用意していた冷たく冷えたメロンとお茶が、みなさんに大好評でした。

暑い思いをした後の冷たい飲み物というのは、本当に美味しく感じられますよね。

住職の話も、その冷たい水のお話しから始まっていましたが、英語のアクアの語源になったかもしれないと言われる、閼伽水(あかすい)仏様にお供えするお水のことです。

今の日本では、お水というのは水道を捻ればいくらでも出てきますが、つい200年ほど前までは世界各地のどこでも、飲み水というのは貴重なものでした。

それをたとえ少量とは言え、仏様にお供えするというのは、それだけ真摯にお祈りをする証でもあり、また、たとえ貴重なものでも、自分一人で独占することのないようにとの戒めの意味もありました。

これは、仏教でもキリスト教でも、他の宗教でも聖水などと言われて、お水に関する教えや戒めというのはたくさん存在します。

そのなかで、お盆で塔婆に水をかけるというのは、写真を見ていただければわかるように、どうやっても一本だけにはかけることができません

必ず、複数本かかると思います。

それがこの塔婆の目的です。

お水をご先祖さんに手向けてあげる、そして、我が家だけでなく、他の人の塔婆、ご先祖さんにも手向けてあげる。

自分が一番!という生き方を貫いていた昔の人が地獄に落ちた物語があります。

そして、その人を救うのは、優秀な個人の力では無理でした。

ですが、老若男女みんなの力を少しづつ分けていただくだけで、簡単に救うことができました。

それがお盆の始まりとなったものです。

ですので、お盆は我が家のご先祖さんに手を合わせて、そして少しだけ他所の霊たちにも手を合わせてあげてください。

その手を合わせてあげるお勤めのことを「お施餓鬼」と言います。

今年も光明寺では24日の10時から、可能な限りのコロナ対策を行ったうえで皆様のことをお待ちしています。

どうか、自分たちだけでなく、他所も救われますように、という祈りをわすれないでください。

山の護摩、私は欠席、そしてお盆の草刈り

いよいよ梅雨が明けたようで、暑くなってまいりました。

今年の梅雨は最初は、梅雨らしい梅雨になったなとおもっていたのですが、蓋を開けてみれば、降りすぎの過ぎたるは及ばざるがごとしでした。

各地の大雨で災害に見舞われた人たちの、一日でも早い復旧を祈ると同時に、少しだけですが募金を送っておきました。

ちょうど、友人のお寺が九州の被災地近くだったのですが、連絡を取ったところ、お寺は大丈夫だったのですが、檀家さんが被災されたとのことで、なにか役に立つ物資をみんなで送ろうとなったのですが、、、こんなタイミングで断捨離していたこともあり、古い毛布や衣類などがなかったのです。

私も物資送る組になりたかったw

仕方ないので、泣く泣く募金だけということになりました。

ほどほどの物は置いておくのが吉ですね。

心に刻んでおきます。

写真はお寺の境内の88か所影霊場ですが、毎年お盆前には、檀家さんの皆さんのお力を借りて草刈りを行います。

お盆でお寺にお参りに来る人の為にも、草ボーボーでは蛇の心配もあり危ないですからね。

今年は雨が多かった影響で草が非常に強い勢いで伸びてきており、草刈りが進んでいきませんでした。

機械の刃が止まるってどういうことや・・・

しかし、そんな中でもやはり皆さん熟練の技をお持ちで。

しっかりと確実に奇麗になっていく草むらは、いっそ感動を覚えるほど。

おかげで無事今年もお盆前の掃除を終えることができました。

ありがとうございます。

さて、今月の山の護摩は、私は法事が重なってしまいましたので出席ができませんでした。

ですので、写真はあげることができません。

しかし、法事の席でもお話ししていて出てきた話が一つ。

最近、私の非常に遠縁ですが、亡くなった方がいらっしゃったり、一時危なくなった人がいらっしゃったりしました。

人が亡くなるというのは、悲しいことで無い方がいいのは生きている人間側の永遠の希望ですが、人ひとりいれば、必ず誕生と亡くなるということがセットで付いてきます。

いくら医学が進んでも、アンチエイジングで若く見えていてもそれは変わりません。

皆さん頭では理解していることだと思います。

ですが、感情の面、心ではどうでしょうか?

余りにも人が亡くなるという事が、生活の傍から遠ざけられた現代、人が亡くなる姿を見たことがない子供はたくさんいます。

人が亡くなるという事は人生の一つの節目であり、終わりであり、仏教でいうと、肉体という姿から魂だけの姿になって、仏様になるための修行のスタートです。

お葬式で、亡くなった人の姿を見て、手を合わせるというのは、節目の姿を子供たちに教えてあげる大事な場所であり、亡くなった人が、私たち生きているものに、人が死ぬという姿を身をもって教える最後の大仕事の場です。

それを見ることができるからこそ、私たちは人生というものを考えられるのであって、永遠に生きるなど不可能なんだと自覚することができます。

節目があるから、頑張っていい人生を送ろうと努力できるんです。

今月はお盆。

亡くなったご先祖さまが帰ってこられる時期です。

頑張って人生を全うした大先輩たちに、手を合わせて、思いを伝えてあげてください。

きっと届きますよ。