かなり古い光明寺の歴史

創建 806年(大同元年)

開基 弘法大師 空海

寺名 高野山真言宗 黒澤山 光明寺

御本尊 千手観世音菩薩

寺名の由来 山号の黒澤山は、山上にあった大きな黒い澤より。

      光明寺は、山上に懸かっていた、光り輝く紫の雲をご覧になられた

      お大師様(弘法大師空海)が付けられたと寺の伝説にあります。

縁起  播磨には、お大師様が開かれたお寺が2ヶ寺あります。

1ヶ寺は高砂市の十輪寺、もう一方がこちらの光明寺です。

寺の伝説によりますと、806年(大同元年)弘法大師空海さまが唐の国より帰国された後、この地に立ち寄られたとき、宿の老婆に言われました。

「私は行基菩薩の弟子で、行基が出家する前の妻だったものですが、あなたのお越しをお待ちしておりました」

その前置きの後に、行基菩薩が使用していたといわれる鉄鉢を弘法大師空海さまに献上されました。

弘法大師空海さまは、その奇縁を深く感ぜられて、山上に紫に光棚引く雲がかかる黒澤山に登られ、黒い水を満たした澤の傍らの霊木で、背丈三尺余り(約1メートル)の千手観音と、脇物に不動明王と毘沙門天を刻まれて、伽藍を建立されました。

開山以来代々輪首を賜り、鎮護国家の霊場として、多くの僧侶の修行の地として栄え、平安末期には、東の書写山、西の光明寺と称せられる程となり、山上には33の寺屋敷が立ち並んでいたと言われております。

今も黒澤の山には、屋敷跡と思わしき石垣が無数に残っており、また多数の仏具、石塔が出土しております。

また、太平記によりますと、後醍醐天皇が隠岐の島え配流されたときの宿ともなっていたとの記述があり、要所で歴史の中に関与していたそうです。

その後は栄枯盛衰を繰り返し、江戸末期に山上より現在の光明寺がある地へと移転されました。

現在山上の光明寺跡地は、先代住職 故 隆弘和尚の尽力により、光明寺奥の院として伽藍を建立、再建され「近畿楽寿観音霊場・第11番札所」に指定されております。